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自覚者達の芸道 19

島 青櫻

 舞台に立つ世阿弥は二重の主の立場にある。ひとつは、謡曲の主人公を演じる主としての世阿弥、いまひとつは、観客の前で能を公演する主としての世阿弥がいる。

 ひとつめの立場、すなわち、いま・ここの只中に滞在し謡曲の主人公を演じる世阿弥と、夢中に滞在する謡曲の主人公との交感の実際を、謡曲「井筒」の場合でみるならば、先にみてきたごとく、物語の境界においては、旅僧と交感する主人公(里の女・紀有常の娘)との関係は、ワキの旅僧が客であり、シテの里の女・紀有常の娘が主、とみることができる。主人公は旅僧の無分別意識の身体に穿たれた無数の孔を抜けて這入り込んで来た命、いつか・どこかに生きた死霊、といってもよい。詰まる所、主人公(主)と旅僧(客)との言語を介しての交感和合は無分別の命の目覚め、すなわち白昼夢における命の通じ合い、ということもできる。

 この場合、謡曲の演者(世阿弥)と謡曲の主人公(里の女・紀有常の娘)との関係は、言語を介しての交感は、いま・ここの生霊(事)と、いつか・どこかの死霊()との、命の法に基づく只中の間における命の通じ合い、といえる。この場合、演者(世阿弥)と主人公(里の女・紀有常の娘)との関係は、事無碍の境界における相即の間柄、すなわち矛盾的自己同一の間柄にある。只中の間における交感の実際は、想う者(ノエシス)と想われる者(ノエマ)との言語を介しての命の交通、といってもよい。言い換えれば、想う者は想われる者を言語へ映し且つ移す情態の命、想われる者は想う者に言語へ映され且つ移される事態の命、といってもよい。謡曲の演者(世阿弥)と謡曲の主人公(里の女・紀有常の娘)の立場でみれば、謡曲の演者(世阿弥)は想う者、想われる者を言語へ映し且つ移す情態の命であり、また、謡曲の主人公(里の女・紀有常の娘)は想われる者、想う者に言語へ映され且つ移される事態の命、ということができる。

 然らば、此処にいう言語とは何か。それは芸道者世阿弥の二曲三体の演技作品にほかならない。すなわち、二曲三体の演技は、謡曲の主人公(里の女・紀有常の娘)の事態の命の移しであり、且つ映し、といえる。只中の間における事態(風姿)の命の映し及び移しは、とりもなおさず、情態(風情)の命の映し及び移し、といってもよい。言い直せば、謡曲の主人公(里の女・紀有常の娘)の命を二曲三体の演技に映し且つ移す謡曲の演者(世阿弥)の営みは、正に謡曲の主人公(里の女・紀有常の娘)の命を一緒に生きること、すなわち、演技という言語を通しての交感和合に他ならない。言い直せば、主人公(里の女・紀有常の娘)の真(まこと)の命を生きることは、主人公の命が真の命を成就する、いわゆる成仏を遂げる行為、命の法に帰命する営為に他ならない。それは、物狂の真実(まこと)の風姿と風情とを描くことによる物狂の命の成仏の実践、言い換えれば、物狂に生きる運命の蕩尽による浄土への反転ともいえる真の命に帰命する営為、といってもよい。物狂を成仏させる世阿弥の方法は、先にみてきた雪舟の方法、すなわち自然の真実(まこと)の風姿・風情を描くことによって自然物を成仏させる雪舟の絵の方法と同一、ともいえよう。

 世阿弥のいう花は、命の法に帰依した霊的命の身際に現れる空間性の美、佇まいの美、つまり真の風姿の美の謂であり、また、世阿弥のいう幽玄は、命の法に帰依した霊的命の身の回りに醸しだす時間性の美、気配の美、余情の美、背景の美、つまり真の風情の美の謂、といってもよい。

 一方、いまひとつの立場、すなわち演者と観衆との関係に目を向けるならば、能の公演は、主としての演者世阿弥と客としての観衆との、言語(世阿弥の演技)を通しての交感和合、命の法に基づく只中の間における命の通じ合い、一緒に生きる営み、といってもよい。只中の命の通じ合いは、演者と観衆とが共に無分別の命、すなわち無の一物(絶対的無量の場所における命のひとつ)であることを前提条件とする。すなわち、演者と観衆とが共に命の法の間に帰依帰命したところの命でなければならない。言い直せば、主と客とは、客は主ではない主であり、同時に、主は客ではない客である、といった非合理的な矛盾する関係にあることが不可欠な絶対条件、といっても差し支えない。主としての演者世阿弥は自覚的芸道者、命の法の間に帰依・帰命した無分別の命、といえる。一方、能の公演の場所に居合わせている客としての観衆は、皆が皆、必ずしも無の一物であるとは限らない。むしろ、己の命に執着する自意識、すなわち私意にある命、すなわち有の一物(相対的有量の場所における命のひとつ)であることの方が可能性が高い、といってもよい。

 斯様な自意識にある観衆(有の一物)の命を無の一物に導くのが世阿弥の演技、といってもよい。その演技は、「瑞風をことごとく窮めて、すでに至上にて、安く、無風の位になりて、即座の風体はただ面白きのみにて、見所も妙見に忘じて、さて後心に安見する時、何とも見るも弱きところのなきは、骨風の芸劫の感、何と見るも事の尽きぬは、肉風の芸劫の感、何と見るも幽玄なるは、皮風の芸劫の感にて、離見の見にあらわるるところを思ひ合はせて、皮・肉、骨そろひたる為手」(「至花道」)の技芸を謂う。こうした技芸による能は、「無上の上手の得たる瑞風かと覚えたり。これを心より出で来る能ともいひ、無心の能とも、または無文の能とも申すなり。」(「花鏡」)と世阿弥はいう。而して、「見所も妙見に忘じて」(「花鏡」)とは、観衆が世阿弥の至上の芸に見蕩れて、すなわち我を忘れ無の一物の情態になる、という意に他ならない。この瞬間、まさに、演者と観衆とは同じ一つの命となり、命の法の只中における命の通じ合いが成し遂げられる、といってもよい。言い直せば、演者と観衆とは、世阿弥の無心の演技を通して、命の法に基づく真(まこと)の命を成就する、といってもよい。

 斯くして、世阿弥の能の公演の境域は、命の法の能力(はたらき)が正しく発起する時空の間、といえる。そこは、夢中の主(主人公)と只中の主(演者)との交感の境であると同時に、只中における主(演者)と客(観衆)との交感の境、ということができる。すなわち、世阿弥の能の公演の境域は、斯様な異なる境が重畳相即する命相互の交感和合が性起する根源的出来事の間、とみなければならない。

5―――遊行的芸道と道行的芸道

 世阿弥の謡曲を、事実と本質という基準でいえば、個々の題目をテーマとする筋書(ストーリー)は事実であり、仏法に基づく筋書の構成は本質、といえる。すなわち、世阿弥の謡曲の本質は仏法の法理、ともいえる。世阿弥の謡曲の多くは夢幻の中の詩、幻夢の意識裡に這入り込んだ命の彷徨の出来事、幻想と夢想とからなる詩、ともいえる。夢中における命の交感は、時に、シテ(主)とワキ(客)との対話(ディアローグ)であり、時に、シテ(主)ひとりの自己対話(モノローグ)であったりする。また、物語の主人公(客)と演者(主)との只中における命の交感は、演じる者としての演者(主)と演じられる者としての物語の主人公との矛盾的自己同一の対話(ディアローグ)、といってもよい。また、能の公演における演者(主)と観衆(客)との只中における命の交感は、見られる者としての演者(主)と見る者としての観衆(客)との矛盾的自己同一の対話(ディアローグ)、ということもできる。

 主と客の命の通じ合い、すなわち交感和合という側面から、世阿弥の能と芭蕉の俳諧を比較するならば、能の演者(主)の出出しの歌舞は、俳諧(連句)の発句、句座の主(脇)への挨拶、すなわち句座に招かれた客から句座の主への呼掛けに当たる。一方、能の公演者(主)の歌舞を賞翫する観衆(客)の主への振舞は、俳諧の脇句、句座の主に呼びかけた客の挨拶に応える主の挙動、といえる。能は主の呼掛けを発端とするが、俳諧は客の呼掛け(挨拶)を発端とする点で異なるが、能も俳諧も作品(歌舞・俳句)を通じて、主と客との命の通じ合いが成立する芸道であることには変わりがない。世阿弥の能も芭蕉の俳諧も、只中の間における芸事、そこにおける主と客との関係は、客は主ではない主であり、同時に主は客ではない客である、という矛盾的自己同一の間柄にある。すなわち、客即是主∞主即是客の法理にある主と客、言い換えれば、汝(客)と私(主)とは、唯一の命の中の二つの命、根のところでは同じ一つの命、とみなければならない。

 また、主と客との交感を可能にする発端の言語は、能においては主の歌舞であり、俳諧においては客の発句、ということもできよう。歌舞も発句も、広義の言語、といってもよい。命の法の間における命の交感和合は、すべて広義の言語を介して可能になる、といっても差し支えない。命の交感和合における言語は、只中の間に出来した事態、すなわち交感和合における情態をうつし、、、た事態、といってもよい。この命の情態をうつし、、、た事態が詩に他ならない。

 詩は、いま・ここの只中の間に出来した事態、出来事、といえる。詩は、己の命を開放し、憧憬(アクガル)出でたところの邂逅を契機とする言語、命の法に基づく言語、情態と事態とが相即する言語、矛盾的自己同一におけるディアローグの言語、すなわち真(まこと)の言語、真言、といってもよい。

 能の公演における演者と観衆との交感和合は、その時機、いま・ここの只中における一期一会の出来事、といえる。また、俳諧の興行における客人と主人との交感和合は、その時節、いま・ここの只中における一期一会の出来事、といってもよい。結局、世阿弥の能の公演の境域と芭蕉の俳諧の興行の境域は同一であり、その本質は、只中の詩境の創作を本意とする求道的芸事であり、本質的にみれば同一の芸道、ということができる。

 命の法に基づく命相互の交感和合は当為、真の命を成就する営為、といってもよい。命運を自覚した芸道者にとっては、己の命運を眞に成し遂げる行為に他ならない。西行の和歌、宗祇の連歌、雪舟の絵、利休の茶、芭蕉の俳諧、そして世阿弥の能に共通することは、命の法の能力(可能態)に帰依した境における、汝(客)と私(主)との命の交感和合の芸事、ということもできる。命相互の交感和合は、芸道者の作品、すなわち詩としての言語を通して成就する。西行は和歌を通して、宗祇は連歌を通して、雪舟は絵を通して、利休は茶を通して、芭蕉は俳諧を通して、そして、世阿弥は能を通して交感和合を果たすとともに、己の命運を真に成し遂げた、といってもよい。

 命の法の本質的能力は、命の生成と育成の働き、ともいえる。造化とは、「天地の万物を創造し、化育すること」、「造り出された天地。宇宙。自然。また、自然の順行」(『広辞苑』)をいうのであるならば、命の法の働きは、造化の働き、ともいえる。既に見てきたごとく、世阿弥は命の法の働きに帰依・帰命した自覚的芸道者、といってもよい。言い直せば、能における世阿弥は、造化に従い、造化に帰った芸道者といえよう。すなわち、芭蕉の命題「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶における、その貫道するものは一なり」に該当する芸道者、といっても差し支えない。

 然らば、芭蕉の命題に、当然挙げてしかるべき「世阿弥の能における」の詞がないのは、一体、何故にか。芭蕉が世阿弥の名を挙げなかった原因は、幾つかの可能性が考えられる。一つには、芭蕉が能を体験したことがなかった可能性。二つには、能そのものは体験していたが、「見所も妙見に忘じ」させるほどの、皮・肉・骨のそろった為手の能を体験したことがなかった可能性。三つには、演劇という芸事のもつ特異性の可能性、等が推測できる。

 一つめの可能性から推測すれば、芭蕉が生きた正保から元禄の時代は、神仏習合の宗教、浄土系や禅宗の仏教が依然として人々の精神的拠所であった。巷には能舞台を設けた神社仏閣が多数あり、能の上演が其処此処であったはずである。禅宗の居士でもあった芭蕉が能の上演を全く目にする機会がなかったとは、考え難い。いつか、どこかで能を体験したと推量するのが妥当、といえよう。

 そこから、二つめの可能性を推量すれば、芭蕉が体験したであろう能は二通り考え得る。一つは、神楽としての申楽を始原とする芸能、『翁』――いわゆる「能にして能にあらず」といわれる芸能――につづいて上演される脇能・神能、演劇というより祭祀性の強い祝祷的芸事を目にした可能性は低くはない。祭祀性の能は、理事無碍の境界における、神(理)と人(事)との交感和合の祭事であって、事事無碍の境界における人(事)と物()との交感和合を専らにする芭蕉の挙げた芸事とは、少なからずの隔たりがある。斯様な祭事としての能を体験したとすれば、能は、芭蕉が理想とする芸事とは異質の芸事として映ったであろう。いま一つは、世阿弥のごとく、見所を妙見に忘じさせるほどの芸劫に至った為手の能を体験しなかった可能性が考えられる。それは、主(為手)と客(見所)との命の交感和合を成し得ない芸事を意味する。ここにも、能は、芭蕉が理想とする芸事とは異質の芸事として映る可能性がある。

 三つめの可能性から推量すれば、芭蕉が命題に挙げた芸事は、和歌・連歌・絵・茶、といった示言性の言語による単独の芸事、ともいえる。それは、示言性の言語を通して、偶然の邂逅を契機とする一期一会の主客の命の交感和合の営み、いうなれば、挨拶ともいえる営為、といってもよい。その交感和合は、複数の客がいても、本質的に事事無碍の境界における単数者の一対一の往還的呼応、といえる。一方、演劇としての世阿弥の能は、音楽や台詞、歌や舞、それに伴う衣裳や能面、笛や鼓といった楽器、更に舞台や橋掛り等、種々の示言性と言示性の言語が幾重にも重畳する総合の芸事、といってもよい。演劇は、示言性即言示性の言語を通して、偶然の邂逅を契機とする一期一会の主客の命の交感和合の営み、といってもよい。その交感和合は、本質的に、事事無碍の境界における単数者と多数者の一対多の往還的呼応、ともいえる。能の公演における演者と観衆との交感は、観衆とのたまさかの邂逅という当座の偶然性はあるものの、謡曲の筋書きに従った必然性における演技を通しての交感和合、ということもできる。連歌や茶の湯のごとく、筋書きのない偶然性の言語を通した主客の交感とは異なる特性、といえる。総合の芸事、筋書きに沿った芸事、多数者との交感和合の芸事、といった能がもつ特性は、芭蕉が挙げた芸事とは異質の芸事として、芭蕉には映ったことは多分にあり得る事、と推量することができる。

 しかし、世阿弥の芸事と芭蕉が挙げた芸事とを、即興性という側面から洞察を試みるならば、筋書きのある能は非即興性の芸事、また、筋書きのない和歌、連歌、絵、茶、俳諧等は即興性の芸事、とは必ずしもいいきれない。謡曲の主人公を演じる世阿弥の演技は、即座の風体、公演の見所(観衆)の意識の質――分別意識であるか、或は、無分別意識であるか、によって当座の見所の興味は異なる――に応じて、筋書きに沿った世阿弥の演技は変容する。見所の意識の在り様によって演技が変容するということは、言い換えれば、見所の興味のあり方によって、謡曲が事実としてみられるか、或は、本質として観られるか、ということに他ならない。簡単にいえば、見所が妙見に忘じるか否かに掛かっている。見所が妙見に忘じる時、見所は謡曲を本質(物語の意味)的に、すなわち主観即客観的に見ているのであり、さもなき時は、見所は謡曲を事実(物語の事象)的に、すなわち主観、若しくは客観的に見ている、といってもよい。つまり、主である世阿弥と客である観衆との交感和合の成否は、偏に、観衆の当座におこる興味に掛かっている、といってもよい。言い換えれば、主である世阿弥と客である観衆との交感和合の成否は、偏に、客の即興を無意識における興味へと導き得る演技であるか否かに掛かっている、と捉えなければならない。そして、また、客の即興を無意識における興味へと導き得る演技であるか否かに交感和合の成否が掛かっている事は、能という芸事だけの事柄ではなく、先に見てきたごとく、芭蕉の挙げたすべての芸事にも当て嵌まる事柄、といってもよい。それは、端的にいえば、主たる自覚的芸道者の無分別識の即興を、客の即興へうつす、、、仕業に他ならない。

 主の無意識の即興を客の即興へうつす仕業は、実際、如何なる手立てによって可能になるのであろうか。それは、主の発する広義の言語(歌舞・詩歌・絵画・等の諸々の芸事)を通して実現する。すなわち、主が言語を発することは、主の即興を言語へ移し映す行為である、と同時に、主の即興を言語を通して客の即興に移し映す行為でもある。それは、言語を通しての主と客の呼応、命の通じ合いの営み、といってもよい。この主と客の呼応、交感和合が成就するか否かは、主の発する言語の質、すなわち無分別意識の発する言語であるか否かに掛かっている、とみなければならない。

 此処までの洞察において、芭蕉も世阿弥も禅仏教の法理(命の法)を覚悟した自覚者としてみてきた。般若心経の「色即是空 空即是色」の章句は、命の法としての仏法の核心を示す章句といえるばかりでなく、全宇宙の法理はこの単純且純粋な一言をもって事足りる、といっても過言ではない。端的にいえば、仏法は相即の法理、といってもよい。相即とは、二つの対向する要素(差異)が根本のところでは一体である法理、つまり、同一における差異の法理、といってもよい。換言すれば、われわれ個々の有限の命(仏としての霊魂)と、個々の有限の命を生み成り立たせしめている無限の命(法としての霊性)とは、仏即是法 法即是仏、という法理が働く場所(根拠)における差異に他ならない、ということを意味している、といってもよい。

 芭蕉も世阿弥も命の法としての仏法を覚悟した自覚者であることには変わりない。言い直せば、芭蕉の芸道も世阿弥の芸道も、一つの命の裡における命の一つの芸の道であることには変わりない。しかし、芭蕉と世阿弥とでは、覚悟の中心の置き所に、少なからぬ差異がある。「笈の小文」における芭蕉の覚悟の中心は、芭蕉という己一人の命の真の成就に中心をおく覚悟、換言すれば、その芸道は個別的な一人の命の真の成就に傾いた芸の道、ともいえよう。一方、世阿弥の覚悟の中心は、生涯一貫して、誰彼問わぬ一般の命の真の成就に中心をおく覚悟、換言すれば、その芸道は一般の命の真の成就に傾いた芸の道、ともいえよう。

 芭蕉と世阿弥の覚悟の置き所の違いは、遊行的芸事と道行的芸事との違いとなって現れる。芭蕉の遊行的芸事は、真(まこと)、すなわち、根拠における自覚的自己を生きることを可能にする時空の間の創造を目的とする芸の道、いうなれば遊行的芸事、となる。一方、世阿弥の道行的芸事は、一般の無自覚的人間が根拠に生きることを可能にする時空の間の創造を目的とする芸の道、いうなれば道行的芸事、となる。

 遊行の芸事も道行の芸事も、根拠に生きることを可能にする時空の間の創造を目的とする芸事、という点では同じといってもよい。しかし、遊行の芸事が創出する時空の間に顕れる言語と心情と、道行の芸事が創出する時空の間に顕れる言語と心情とは、本質的に性質を異にするのもの、と見なければならない。簡単にいえば、遊行の芸事が創出する時空の間に顕れる言語と心情は、命の相互交感和合、いわば目合(まぐわい)における自覚的自覚者の真の言語(詫び)と真の心情(寂び)、すなわち、本質的に、慈愛の詞と心、ともいえよう。一方、道行の芸事が創出する時空の間に顕れる言語と心情は、無明が故に、ひたすら心身を繰られる眺めにおける無自覚的自覚者の真の言語(花)と真の心情(幽玄)、すなわち、本質的に、悲哀の詞と心、ともいえよう。


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