ホーム
+PLUS

自覚者達の芸道 13

島 青櫻

 芭蕉の『幻住庵の記』の中の章句「つらつら年月の移り来し拙き身の科を思ふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは仏籬祖室の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる。」は、心法的自覚に基づく芸道者の想いを遺憾なく明らかに述べた件、といえよう。

 己の命運的命を自覚した芸道者の心の底には、常に己を駆り立て突き動かす意向的想いが働いている。それは、出会いと交感を求める憧憬(アクガル)、といえる。しかし、この芸道者の心の底にはたらく意向的想いは、芸道者のものでありながら、芸道者のものではない。言い直せば、憧憬(アクガル)、すなわち意向的想いは、芸道者という有量の命の想いであると同時に、有量の命の基である無量の命の想いでもある。心法の間においては、有量の命と無量の命とは、有量の命即是無量の命∞無量の命即是有量の命の矛盾的自己同一の間柄にある。この場合、無量の命の想いは、有量の命を通して更なる己の創成を目論む有量の命を超えた命の働きであり、その想いは、有量の命を繰ることによって実現する。この超越的な命の意向的想いが有量の命に憑き、それに繰られる想い、すなわち憧憬(アクガル)こそが、命運的命を自覚した芸道者の凡てに共通する天賦の資質、といってもよい。しかし、その憧憬(アクガル)を実現する手立ては、命運的命に賦与された才能によって異なる。西行は和歌において、宗祇は連歌において、雪舟は絵において、利休は茶において、芭蕉は俳諧において、そして世阿弥は能において、才能を賦与された、といえる。

[『古事記』に載せる歌謡「この御酒は 我が御酒ならず 神酒の司 常世にいます 石立たす 少名御神の 神寿き 寿き狂ほし 豊寿き 寿き廻し 奉り来し 御酒ぞ 残さず飲せ ささ」の]「寿き狂ほし」という「狂ほす」ということばは、本来、「繰る」という語と同根であろう。手ぐり寄せる、糸をくる――、すべて丸くする運動が「くる」である。………古代において、まずは〈狂〉とは、そのように神に魅せられた状態だったと言える。そこで、しばしば人間が神的なものとの対話を知覚する時に起こる、あの心情の不可思議を狂と考えてよいだろう。………正体不明の「もの」、何にせよ一つのふしぎにとりつかれた狂が「もの狂ひ」であり、造酒は積極的にこれを神との交接として実修しようとした。〔注記:[ ]内は筆者記入〕

(中西進『狂の精神史』)

 『漢字源』によれば、繰(くる)の意味は、「①{動}くる。たぐる。繭の表面をかすめて、生糸をいそがしく手もとへたぐりとる。②{名}色とりどりの模様のあるあや織りや、組みひも。また、類語的には、「操(いそがしく手を動かす)・掻〈ソウ〉(せかせかと表面をかく)・抄〈ショウ〉(表面をかきとる)などと同系。」とある。繰るは、イメージ的には、渦巻、多くの自然現象にみられる生成運動の形式である。『古事記』の歌謡の狂は、人間と神との交接における形式、すなわち人間と神とが相互に絡み合う形式、譬えれば、ウロボロスのごとき、往還的環状構造からなる交感形式である。

 詮ずる所、狂とは、命の原理における有量の命の心身の活動、といってもよい。先にみたごとく、仏法とも、また、心法ともいえる命の原理は、有量の命と無量の命の交感、及び、有量の命相互の交感による生成運動の法理、ともいえよう。この場合、人間は神に繰られる有量の命、神は人間を繰る無量の命、といえる。繰られる命である人間と繰る命である神、この相矛盾する命が絡み合い相即する間における交感は、いうなれば、命を繰り合う営み、ともいえよう。人間は神に繰られることによって神の繰る働きを実現し、同時に、神は人間を繰ることによって人間の繰られる働きを実現している、といってもよい。相互の働きは、同一における差異の働き、矛盾的自己同一の働きに他ならない。言い直せば、無量の霊性としての神と交感する人間は、有量の命、つまり霊魂、もの、ともいえる。したがって、「もののけ」とは、霊魂の気のことであり、気は狂気を指す。斯くして、「もの狂ひ」のものは、霊魂、時に鬼とも呼ばれる身体をもつ神、ともいえる。いうなれば、大神(真理)に随伴する神々(真実)、ともいえよう。

一体に能を申楽といい、これを演ずることを「狂言する」(たとえば『拾玉得花』)と表現し、能の間狂言が「狂言」として独立の形式を備えた劇として上演されるに至ることも、周知の事にある。能という演劇、謡曲という台本は、あまりにも〈狂〉にかかわりすぎている。その上「遊狂」という類別も行われ(『三道』)、一部の能を修羅物とよび、「風流」ということがらも能の上に重要な特色となっている。………生霊・死霊というふしぎの物の働きは、依憑者自身の霊を狂わせる。そのような霊の所有者が、何よりもまず「物狂」であった。

(中西進『狂の精神史』)

 中西のいう「能を申楽といい、これを演ずることを「狂言する」」を理解するには今少し言葉を補足する必要がある。

能の先祖は猿楽であり、その猿楽の根本芸は滑稽物真似である。………宗教儀礼の猿楽化されたものは滑稽性の薄い内容のもので、歌謡、音楽を中心とする芸能内容のものであった。神霊の出現には神歌、太鼓などが必要であったし、神に語りかける言葉も、神が語る言葉も、人間の語る調子とは違っており、それは歌謡調であった。神霊との語りには滑稽性はなく、真面目な内容のものが要求された………

(後藤淑『能と日本文化』)

 而して、後年、猿楽が申楽に変名したのは、「申という字は神の示編を採った字である。猿楽を神楽と結びつけ」た事によるものであり、一方滑稽の言葉は、「狂言綺語ともいわれ、………狂言の祖となった」、それは「娯楽から宗教儀礼へと猿楽芸の内容変質」を物語るものである、斯くして鎌倉時代の猿楽は能と狂言、すなわち「真面目と滑稽・信仰と娯楽というふたつの異なった内容をもっていた………二つの表現形式は違うが、[狂の]物真似という大きな枠で統一している」と後藤は解明する。

 怨霊の憑き物を根とする能楽の「物狂」は、己に憑き繰るものの正体である大神を知らずに、ひたすら狂う無明者の狂態といえる。物狂いの交接相手は、大神ではなく、己と同じ霊をもつ神々との交感、言い直せば、事ととの間、縁起の境における霊同士の交感、といってよい。この場合、往々、此方の事は生霊、此方のは怨霊としての死霊、生霊に依憑する霊、といえる。然して、死霊に依憑された生霊は死霊に呼応する霊、といえる。結局、「物狂」は、物事に執着する私意的命の狂態、無自覚における命の狂、すなわち命の法理を自覚せぬ無明の境における事態、といってもよい。

あの世阿弥が可視の世界に招きいれようとした「もの」(霊)を心の深奥に感じつづけた人は、世阿弥の他にも多く存在する。元禄の詩人松尾芭蕉は、その最たる一人といえようか、………[「そぞろ神の物につきて心を狂はせ」(『奥の細道』)の]「物」がそぞろに心を狂わせるというのは、あの世阿弥が演じて見せようとした物狂と、驚くほど近い。………そぞろなる「物」に揺り動かされる漂泊の思いであり、物によるわが身の狂おしい衝動である。………「ほっ句すべきわざ」を妄執と感じた時、彼の求めていた妙義は捉えられたのかもしれない。無為なる造物主の妙義には、妄執はなかったはずだからである。風狂すら妄執と観た時、真の風狂の完成があったろうか。〔注記:[ ]内は筆者記入〕

(中西進『狂の精神史』)

 先にみたごとく、狂とは、命の原理における有量の命の心的活動の意であり、その由来は、無量の命が創始した不二の命にある。すなわち狂は、無量の命の繰る働きに随伴する有量の命の繰られる働き、といえる。別言すれば、それは人間の命の深奥に働く霊性の働き、ともいえる。意識的観点からいえば、有量の命の平常の意識、いわば表層意識の底に働く深層意識、乃至有量の命を包摂する無量の命の意識的働き、いわば無意識、と呼んでもよい。命の原理は、有量の命の働きである方便的霊性(Spilitas)と、無量の命の働きである法性的霊性(Spilitualität)とが、相互に絡み合う交感の仕組、いわば、命の自己生成の法式からなる。芭蕉のいう造化は、この無量の命即是有量の命∞有量の命即是無量の命の法理からなる命の生成・変遷の働きを指している。

 狂そのものは、本来、凡ての有量の命である物に等しく備わる心的活動、無意識に随伴する無分別の情態における意識活動、ともいえる。すなわち、狂とは、無分別の情態における有量の命(物)に顕れる心的現象、といってもよい。無分別の情態は、睡眠時の夢をみる情態、或いは通俗的常識判断に染まらない純心な童子の如き状態、つまり無量の命の働きの内に開かれた有量の命の心情、ともいってよい。言い直せば、此処にいう狂とは、心象的世界にひたすら憧憬(アクガル)する無分別者の情態の趣きと振舞を指し、命の法理を逸脱した物象的事柄にひたすら執着する分別者の物欲に基づく狂態は埒外にある狂、すなわち命の法理における狂を指している。

 ところで、狂は、無量の命に繰られ随伴する有量の命事態といってもその狂態は一様ではない。物の心的境位によって、異なる狂態となって顕われてくる。

 既にみてきた如く、自然法爾に帰依・帰命した自覚者達の生死の道は、真(まこと)の心に相即する営為、すなわち風流・風情・風雅といった風、法の息吹ともいえる風に心身を任せ、風に吹かれる遊行、いわば風狂とも呼べる狂態の道、といえよう。それは、物象的事柄に執着する世俗を離れたところ、生死の只中での安寧と愉悦に満ちた道、といってもよい。

 一方、常凡の無明者、すなわち無自覚者の生死の道は、訳もわからずひたすら己の心に憑依した物の気に繰られ踊らされる道行、いわば物狂とも呼べる狂態の道、といってもよい。それは無自覚が故に執着する俗世の心象的事柄の虜になったところから生じる怨念や苦渋に満ちた修羅の道、といってもよい。

 風狂は、涅槃の只中における命の法の実践であるとするならば、物狂は、煩悩の只中における命の法の実践、ともいえよう。然らば、煩悩の境に呻吟する物狂には、静寂安寧の境に帰る術はないのか。

 憑依した物の気に繰られ踊らされる物狂の宿命道を徹底的に蕩尽することは、それはそれで、浄土へ赴く命の法のひとつの方法、言い直せば、煩悩に塗れた宿命を蕩尽することによって、常凡の無明者が煩悩の境から涅槃の境へ反転帰入する営為、とみることもできよう。その営みは、南無阿弥陀仏、すなわち煩悩を抱えたままで命の法の只中に帰依・帰命する念仏にも似た浄化行為、といえなくもない。念仏は、此岸、すなわち生霊の住む現(うつつ)の境において成仏を遂げる為の命の法の実践、ともいえる。一方、物狂の蕩尽は、彼岸、すなわち死霊の住む夢幻の境において成仏を遂げる為の命の実践、ともいえよう。

 仏法(自然法爾)も心法も、無量の命、すなわち唯一の命の境における命の法理に他ならない。その法式は、此岸即是非彼岸∞彼岸即是此岸、或いは、現即是夢∞夢即是現、或いは、有即是無∞無即是有、言い直せば、限りのない命が限りのある命を通して夢をみる幻夢の形式、とみることもできる。此岸と彼岸、幻と夢、有と無とは、夢みる一者の異なる顕れ、基においては一体であるものの対向的二体の現れ、すなわち相互は相依相属する事柄、といってもよい。それは、胡蝶の夢の如く、現、すなわち幻と夢の区別がつかない一如の間の出来事、とみなければならない。

 後にみる世阿弥の戯曲の多くは、幻即是夢∞夢即是幻の間、すなわち幻の間と夢の間とが重畳融通する幻夢の間における複式幻夢能、といえる。幻夢能の仕手は、無量の命の只中にひたすら生死する無明者であり、その謡曲は修羅の道行の立ち振る舞い、といってもよい。世阿弥は,こうした幻夢の間における物狂の修羅道こそ、人の世の常なる営みとみたものと思える。

 物狂の営為は、命の法の間における無明者の立ち振る舞い、すなわち無自覚であるが故に法の摂理に繰られ踊らされる、いわば、消極的受動的な狂の実践、といってもよい。この点からみれば、風狂の営為は、命の法の間における自覚者の立ち振る舞い、法を自覚し信じるが故の積極的能動的な狂の実践、ともいえよう。

 要約するならば、風狂と物狂は、異なる立場における狂の様相、ともいえる。風狂は真(まこと)の法理、すなわち仏法とも心法ともいってよい命の法理を自覚することにより、煩悩の境を離れ、涅槃静寂の境、すなわち絶対無の場へ帰依・帰命した処での法の実践、その営みは、静寂と愉悦に満ちた真の法における当為、といってもよい。一方、物狂は真の法理の内にいるにもかかわらず、無明が故に煩悩の境に有漏つき留まるばかりで、涅槃静寂の境の境に帰入する術、すなわち法を自覚し信じる方法をしらない。その営みは、怨念と苦渋に満ちた修羅の営為、といってもよい。

 結局、風狂と物狂は、真の法理における二様の心情の顕れ、といえよう。風狂は自覚者、すなわち無の一物の積極的・能動的に法理に随伴するところに生じる情態、といえる。一方、物狂は、無自覚者、すなわち無の一物の消極的・受動的に法理に随伴するところに生じる情態、といえる。

 一般的にいえば、有量の命の環境――有量の命を包摂する無量の命や、他の諸々の有情無情の命が一緒にある境界――との身心の交接は、身体に穿たれた孔を通して実行される。身体に穿たれた孔には、動物の皮膚にあけられた毛の孔や汗腺の孔、或は、植物の表皮に穿たれた呼吸用の気孔、等の孔もあれば、いわゆる九覈といわれる目・耳・鼻・口・大小の用便の孔がある。就中、気息作用を兼ね備える鼻と口は、命の要の孔、といえる。斯くして、命の心情的交接は、命の情態――覚醒時の意識と睡眠時の意識、或いは、表層意識と深層意識、或いは、私意的認識と誠意的認識、等――によって、穿たれた孔の働き方が変化し、結果、著しく異なる体験となって顕れる。

 無意識に随伴する無分別者の情態、すなわち無の一物の狂態には、睡眠時の夢における狂態と、覚醒時の現の夢ともいえる幻における狂態とがある。

 睡眠時における夢は、有量の命の全てが経験する無分別の情態における意識現象、ともいえる。言い直せば、覚醒時の外部的環境から遮断された個別的命の裡の意識的出来事の経験、ともいえよう。睡眠時における意識は、覚醒時の分別的表層意識から解放された時、自ずと働き出る個別的生命を通しての深層意識、個別的命の深奥に働く有量の命を繰る無意識、すなわち狂における意識に他ならない。斯くして夢は、狂における無分別の情態が経験する意識現象、といってもよい。その境界は、覚醒時の分別的境界とは似ても似つかない支離滅裂の異界、矛盾する物事が融通無碍に統合する不可思議な間である。夢中に出逢う物事は、いうなれば、自己本来の意識、すなわち無分別の意識に齎されることによって、身体に穿たれた他己との交通を可能にする幾つかの孔が開かれ、その孔を通して滲入してくる諸々の出来事、心象或いは心の影、といってもよい。その交感の多くは、明りを伴わない言語、いわば暗がりの言葉によって行われる。何故、夢中の言語には明りが伴わないのか。夢中の出来事の間は、睡眠時の個別的生命の意識裡の間、その交感は、睡眠時時の理事無碍の間における交感であり、同時に事事無碍の間における交感でもある。有量の命の眠りを通しての無量の命の意識の働き、すなわち玄(おく)における狂の交感、といえよう。言い直せば、夢は無量の命の間に住む過去霊や未来霊と現在霊との眠りにおける想念の交換、ということもできよう。


前のページ << 自覚者達の芸道 12

次のページ >> 自覚者達の芸道 14に続く