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炎環の俳句

炎環四賞 第二十七回「炎環評論賞」受賞作

「楸邨の季語――『綿虫』の考察」田辺 みのる

一、はじめに

十七音というあまりにも短い詩形である俳句を読み解くうえで、作者の作句当時の状況や時代背景を知ることは、作品を深く理解することにつながる。作家の生涯が作品にどのように反映しているのか傾向を知るためには、生涯にわたる作品の全体像を掴まなければならない。しかしそれは膨大な作業であると同時に、視点が無限に広がりすぎ、かえって大きな変化の流れを見失いかねない。ではどうするか。「木を見て森を見ず」という言葉があるが、最初から森を見ようとして無理ならば、まずは一本の木から始めてみればどうだろうか。一本の木にも他の木と同様、年輪が刻まれている。それを読み解くことが全体像を見るためのヒントとなりはしないだろうか。

問題は一本の木をどのように選ぶかである。俳人別の代表句を収めた句集があるが、それはすでに誰かによって選ばれた句である。その句が初期から晩年まで網羅していたとしても、それを以て全体像を知るには十分とは言えないのではないか。その句集の句は人口に膾炙した句であるか、編者によって意図的に選ばれた句であり、そこから見えてくる作家像は既成の作家像か、その編者の思い描く作家像である。

先入観なく一から考察するために必要なことは、ある条件に基づいて抽出した全ての句を年代順に読み、句の変遷を掴むことである。そこから作家の生きざまが見えてくる。その抽出の条件に季語を提案したい。一季語に絞って抽出した句を年代順に読み、作家が季語に込めた思いと変遷を掴むことで作家の人生をあぶりだす試みである。

一季語に絞ることは全体像とは程遠い一面しか見ない危険性を孕むが、その「一面」にはほかの季語の句に共通するものを含むはずである。全体像につながる共通の特徴を掴むためには、変化の傾向を押さえなければならない。そのためにも年代順に全て読むことが必要だ。

もちろん一季語で作家の全体像を掴むことなどできるはずもないのだが、季語別の考察を積み重ねていくことで全体像に近づくのではないか。加藤楸邨という広大な森への一本として本論で選んだ木は綿虫である。

実は綿虫の句の考察と同時並行的に笹鳴の句を考察したのだが、少し遅れて考察した笹鳴の句の考察によって新たな発見があった。それにより楸邨の最晩年の句に対して認識を新たにした。一季語に絞りその全てを読んだことで、句集未収録の句への認識も変わった。特に最晩年の句集未収録の句は読まれる機会がほとんどないが、最晩年を含めた全体像を把握するには欠かせない作品だ。

一季語に絞ると言いつつ、笹鳴と綿虫を同時並行で進めたことにより、内容の重複する評論が二本できてしまった。重複するとは言っても季語により意味合いは違ってくる。そのため二本に分けた。念のため双子の評論(笹鳴)の存在を断っておく。

考察の対象に綿虫を選んだのは特に理由はない。ある程度の句数があり、どの年代にも一定数あることは条件にはなるが、後付けの理由である。強いて言えば、個人的に好きな季語だからということになるだろうか。

なお本論は『新編 加藤楸邨全句集』(以下、『全句集』と記す。青土社刊)に基づき、これに未収録の句は対象としていない。

二、戦中三句

綿虫は古典では見かけない季語だ。明治以降に季語として使われ始めたが、子規や虚子に綿虫の句が思い当たらないが果たしてあるのだろうか。楸邨の綿虫の句は句集未収録のものを含めると生涯で四十九句あるが、初期には綿虫の句は少ない。順に見ると二十七歳の時に一句、三十七歳の時に一句、そして三十九歳の時に五句ある。楸邨三十九歳は昭和十九年、終戦の前年である。その五句から四句を注目したい。

『沙漠の鶴』は戦時中に大陸へ渡った紀行句集である。紀行の最後は大陸から帰国し、出迎えた知世子夫人と京都で合流するのだが、その時の一句である。この句は『火の記憶』にもあり、その前書から十月二十九日、京都の八瀬での句であることがわかる。この当時の楸邨の戦況への認識を知るうえで参考になるものがある。『沙漠の鶴』の別の句ではあるが、紀行の初期の段階で北京に向け朝鮮を北上中の句の前書が以下の通り。

「ノートに『案ぜられるのはやはり東京の空襲である。防空壕にうづくまる四人の子の顔が思ひ起される。』寝台の軋りが呻吟になって感ぜられる。」

実際に東京大空襲が始まるのは掲出句から四週間後ではあるが、すでに空襲が近いこと感じていたようである。この後、楸邨夫妻は集団疎開中の長男・次男を信州に訪ね、東京に戻る。京都、八瀬での句から十一日後の十一月九日、その翌日の十一月十日に綿虫(大綿)の句が三句詠まれる。これを私は綿虫の戦中三句と呼びたい。

一句目と三句目だけであれば、綿虫が生まれてから日暮れまでの静謐な時間を感じるが、二句目の爆音が戦況の厳しさを示している。それは直前二日間の三句を見れば明らかである。

この十一月七日、八日の三句から、九日、十日の綿虫の三句が敵機来襲の不安を抱えながら、綿虫に心を寄せて詠んだことがわかる。この綿虫の句の二週間後、十一月二十四日に東京への空襲が始まる。そこから九か月後の終戦まで空襲は百六回にも及ぶ。綿虫の句には、間近に迫る空襲の予感と、束の間の平穏への祈りが込められている。しかし綿虫の三句、特に一句目と三句目は、戦時下の特殊な環境で詠まれたことを前提としなくとも鑑賞できるし、前書も日付や天候のみであり、戦争を離れて詩に昇華しようという姿勢が感じられる。しかし私には新たな問いを提示しているようにも思える。この点を次に述べる。

三、戦後も続く問い――綿虫はどこから来てどこへ行くのか

一旦、綿虫の戦中三句に戻る。その一句目〈澄みとほる天に大綿うまれをり〉。綿虫は天に生まれたのだろうか。なるほど、そう書かれている。しかしその天は「澄みとほる天」である。何もない無の天とも言える。無から生まれたということは、実はどこから来たのかわからないことを意味する。気づけばそこにいたのであり、どこからやって来たのかは定かではない。「綿虫はどこから来たのか」という問いは、同時に「綿虫はどこへ行くのか」という問いも含んでいる。終戦から二年後に詠んだのが次の句。

戦中の三句目、〈大綿やしづかにをはる今日の天〉と同じように前書は日付と天候のみ。これは偶然だろうか。しかも十二月八日は開戦日でもある。二年前の「をはる今日の天」は日が沈み闇に包まれていくことだが、その句を意識しながら、闇に包まれた後の綿虫に思いを馳せているのではないだろうか。

この間の楸邨の作句の心情を述べた文章がある。『火の記憶』の「跋」からの引用が以下。

「この集をまとめながら読みかへしてみると、激動の中に却つて静謐なものへ歩み入らうとした心の動きが感じられるが、これは当時のとざされた心の動きの必然であつたと思ふ。これに続く終戦以後の集『野哭』では、それが開かれた世界に向かつてきたことを自覚してゐる。」

『火の記憶』の綿虫の掲出句は、閉ざされた戦時だからこそ静謐なものを求めた句であった。それに対し『野哭』の綿虫の掲出句は、終戦によって開かれた世界に目が向き、綿虫の「行方」にも目が向けられたのである。戦争中には目を向ける余裕さえなかった、失ったもの、亡くなった人を思い、綿虫の行方を思ったのであろう。『火の記憶』の「跋」の日付は「昭和二十二年秋」とある。先述の『野哭』の掲出句は同じ年の十二月八日の句であるから作句当時の心情に近いと考えて差し支えないだろう。

次の句は、終戦から三十年後の句である。

 この句は、戦後三十年を経ても、楸邨の綿虫は終戦前後の綿虫のままであることを示唆している。楸邨の綿虫の句は全部で四十九句あるが、「どこから来てどこへ行くのか」の問いを直接詠んだ句は、次の句で全て。

この句については最晩年の章で述べる。

私は綿虫という言葉にそこはかとなく郷愁を感じる。しかし綿虫の原風景を問われた場合、私自身の幼少期の記憶の中に、明確な体験としての記憶はない。例えば、綿虫の夕暮れの景を思い浮かべた場合、そこに農作業をする父の姿がある。これは父の記憶は確かなのだが、そこに綿虫がいたかは実は定かではない。おそらく綿虫が視界の中にあっても意識が向いていないため、確かな記憶ではなく無意識の領域に刻まれているのではないか。この無意識の領域を刺激すると、綿虫のいる風景とは認識していない思い出も、綿虫の景として立ち上がってくるのかもしれない。

綿虫は地方によっては雪虫とも呼ばれる。また俳句では雪蛍という異名もよく使われる。しかし、雪や蛍であれば記憶の主たる対象となり得るのだが、綿虫では記憶の主たる対象となりにくいのではないか。気づかないうちに、いつの間にかふわふわと漂い、邪魔というほどでもないので意識が向きにくい。もしこれが蠛蠓であれば、存在感があり記憶の主たる対象となり得る。私自身も、自転車で蠛蠓に突っ込んだことがあり、目の中に入ってひどい目に遭った。一方綿虫は、記憶の主たる対象の傍らで漂ってはいるが認識されず、「いつからかわからないが気づけばそこにいた」という忘れ去られる存在だ。戦時という閉ざされた状況で、楸邨はそのような儚い存在に対して「どこから来てどこへ行くのか」という問いを発する。

つかみどころのない浮遊と、一瞬にして別世界から現れたような存在感のなさは、当然、死者の魂を思うであろうし、戦時であればなおさらと思う。しかし楸邨はその安易な連想は詠まなかった。「命」「魂」「死」などに結び付く言葉を使った句は、楸邨の綿虫の四十九句中一句のみである。次の句。

この句の収められた『雪起し』は筆墨集である。硯と墨と筆とを通して一挙に句を書きおろす。そうしてできた書を纏めた特殊な句集である。句集のあとがきに「句中に入りきつたところで一つの勢が生まれてくるのを見のがさずにとらへて、その勢の生み出した流れに乗つて、一気に一句を生み出さなくてはならない」と書かれている。つまり後から推敲して手直しをしたりせずにできた作品群なのである。綿虫に死のイメージをつけないよう抑制してきた楸邨であったが、「勢の流れ」に乗って生み出されたものにこそ心底が吐露されているのではないだろうか。

四、楸邨の綿虫の本意

楸邨は戦時中に意識した綿虫の死のイメージを戦後も、前掲の一句を除けば、直接表現することはなかった。楸邨が戦中に発した「綿虫はどこから来てどこへ行くのか」という問いの答えは、生と死として戦後の作家に引き継がれていく。

そして死を最も強く意識した句はやはり波郷の句であろう。

「綿虫や」とくれば波郷の句を思い浮かべる人も多いのではないだろうか。その意味では、綿虫にはすでに死のイメージがついてしまったのかもしれない。

しかし楸邨はすでに述べたように、一句の例外を除いて、死のイメージを直接詠もうとはしなかった。「綿虫はどこから来てどこへ行くのか」という問いの答えはすでに出ているようなものなのに、問いを問いのまま残した。楸邨にとっては答えが曖昧であればこそ綿虫なのではないだろうか。存在の曖昧さが時間や空間の境界をぼやかして、過去への郷愁を引き出し、死者や自らの命の行方を無限に広げていく。このように考えると綿虫は特殊な季語とも言える。背景に存在感なく漂い、主役になりにくい。主役に立ててもどこかぼんやりして曖昧である。楸邨にとって綿虫という季語は、時間と空間の境界が曖昧と感じさせられることこそが本意なのかもしれない。

ここまで戦中三句から続く「綿虫はどこから来てどこへ行くのか」という問いを中心に述べてきた。一見、戦中三句と関係のないように見える句もこの三句を踏まえて作られているということはないだろうか。だがそれを明確に示すものは見出しにくい。打ち明けて言えば、景があいまいなものも多く、私には読み取りにくい句が多い。ならば試しに戦中三句を指標として読みなおすのも有効なのではないかと思う。例えば次の句はどうだろう。

一句目は前書がなければ状況も心情も掴みづらいし、他の句も同様である。一句目の前書は検査のための造影剤を体内に入れたことで発熱したのであろう。発熱の中で戦中の「澄みとほる天」を思い出していると、いつの間にか綿虫が辺りにいるかのような心地がしたのではないか。

二句目。戦後の平和な綿虫の景だけであれば「牙」は浮かんでこない。綿虫によって空襲直前の静謐な空と、それに続く空襲の空へタイムスリップすることにより、「身の奥」の「牙」を再認識している。

三句目。綿虫はどこへ行くのか。黙って蹤いてゆくのは、綿虫の行き先を問いながらも受け入れているのであろう。「澄みとほる天」に生まれた綿虫は、「しづかにをはる」天へ帰ってゆく。そこは「ひとり黙つて」ゆくしかできない場所なのだ。

このように戦後の句を戦中の句を前提に読むことは、あながち間違いとは言い切れないのではないか。たとえば、古典において有名な叙述のある季語であれば、その季語を使った句は古典の本意を念頭に置きながら読むであろう。しかし綿虫のように古典での言及が少ない季語は、作家自身が作品の積み重ねによって、作家にとっての本意を創り出していくしかない。その際に作家の原風景、原体験が大きなウエイトを占め、後の作品にも影響を及ぼす。季語にそれまでの人生がにじみ出てくる。ならば過去の句を核として読み直すことは句の理解を深めることにつながるのではないか。もちろん全ての句に当てはまるわけではないが、掴みづらい綿虫の句を理解する端緒となる。

「綿虫はどこから来てどこへ行くのか」という問いを問いのまま残したということは、その問いの答えを戦後の句でも探し続けているのかもしれない。問いの根っこが戦争にあるからこそ、安易に答えを出すことを自らに禁じているかのようだ。楸邨の描く綿虫の景は時間や空間の境界が曖昧になり、懐かしいようでもあり、見たことがないようでもあり、読み取りにくさを感じる。それは楸邨の綿虫の原体験が戦中の三句であるとすると、それを前提として詠まれている句を、読み手はそうとは思わず、完結した一句として読むからではないだろうか。

先に述べたように俳句における季語は本意を前提として、一語に古典から培われた深い情趣を持たせる。例えば、「夏草」を角川ソフィア文庫の『俳句歳時記 第五版』の解説に見ると「生命力に満ちている」との一文がある。しかし「夏草や」とくれば、俳句をある程度知っている人の誰もが一瞬、芭蕉の句が頭をよぎり哀感が漂うのを感じるのではないだろうか。それと同様に、綿虫の戦中三句を思い起こしながら戦後の句を読んでいくと、楸邨の中で解決しない何かを抱え続けている句のように感じられないだろうか。句の醸し出す曖昧さとは裏腹に、問いを問いのまま問い続ける妥協のない姿勢が見えてくる。戦中三句が戦後の綿虫の句の出発点であり、言わば楸邨における綿虫の本意なのである。

五、晩年、そして最晩年

楸邨の綿虫の句は生涯に四十九句ある。この数は少ないわけではないが、特に多いというわけではない。ところが年代別にみていくと、晩年、急に多くなっていることに気づく。楸邨七十四歳、つまり昭和五十四年以降の句が全体の半分以上を占めている。句集で言えば『怒濤』『雪起し』、そして『望岳』だが、きっかけとなったのは『雪起し』ではないだろうか。『雪起し』は昭和五十四年頃から昭和五十八年頃の書を纏めた筆墨集であり、硯と墨と筆とを通して一挙に書き下ろされたものだ。すでに紹介した句集のあとがきに「一気に一句を生み出さなくてはならない」とある。楸邨はこの方法で今まで抑制してきたものを解放したのではないだろうか。戦時中の死を強く意識した極限状態で静謐な綿虫を詠んだことで、楸邨にとって綿虫が安易に詠めない季語になってしまった。その呪縛を筆墨によって解放した。楸邨にとって綿虫は身近な季語となった。

そして最晩年である。楸邨に「最晩年」と呼ぶべき時代があることに気づいたのは、綿虫の考察を一旦終えて、笹鳴の考察に入ってからだ。笹鳴の句がある時を境に変化する。それは夫人の知世子が亡くなった昭和六十一年一月三日である。楸邨自身が纏めた最後の句集は『怒濤』であるが、その句集の最後は「永別十五句」で終わっている。これより後の七年半が楸邨の最晩年である。

楸邨の笹鳴の句は、姿が見えない笹鳴のかすかな声にひたすら耳を澄まし、自らの孤独と向き合う句である。それは変わらないのだが、目には見えないかすかな気配は、笹鳴だけではなくもう一人の存在があるのではないかと思わせるのである。笹鳴に亡くなった知世子夫人を重ねているのではないだろうか。目には見えずとも鳴き声に気配を感じる笹鳴と、音のない綿虫は対をなしている。ならば最晩年の綿虫にも知世子の気配を感じ取ろうとしているのではないか。

瞬間的な場面の切り取りではない。長い時間耳を傾け続け、その結果、かすかな音もしなかったのではないだろうか。綿虫だけではない見えないものの気配を感じ取ろうとしている。

すでに前章で紹介した句だ。「綿虫はどこから来てどこへ行くのか」の問いを直接詠んだ句として最後に挙げた句である。楸邨自身が誰かへ振り返ったのだろうか。しかしこの句に複数人登場する必然性が感じられない。では綿虫が楸邨へ振り返ったのか。だが「行方や」の切字の響きは別の想像をさせる。綿虫はすでに姿を何処かへ消そうとしており、そこに振り返るという擬人化はそぐわない。どうしても綿虫以外の気配を感じてしまう。知世子の気配が楸邨を振り返っているのではないか。

この句も前々章ですでに述べた句である。「蹤きゆ」くのは綿虫にか。しかし「や」の切字の響きがそうではないと訴えてくる。誰に蹤きゆくのか。やはり綿虫に亡き人の気配を重ねているのではないだろうか。

亡き人の気配を身近に感じた瞬間、それを確かめるように手を握りしめる。何も掴めない手は拳となる。「拳のこる」は、握ったとたん気配は消え、残ったのは拳だけということか。

楸邨が綿虫や笹鳴に亡き人を感じ心の対話をしたのは、知世子逝去後すぐに楸邨が遺句集を纏める作業に入ったことが大きいのではないかと思われる。これは弟子であると同時に長年、編集者として楸邨を支えてきた石寒太が、憔悴した楸邨を心配し元気づけるために提案したことであった。一週間ごとに選句の原稿を受け取りに楸邨邸に通った石寒太は、その著書『わがこころの加藤楸邨』の中で、氏に語った楸邨の言葉を次のように紹介している。

「知世子がね。語りかけてくるんだよ。寒太君。いろいろなところに、いつも一緒にいったからね。僕は、いままで見落としていたな。生きている間は、何もいわなくても通じあっていると思っていたけれど、そうじゃないね。一句一句選していると、ああ、知世子はこんなことを考えていたんだ、こんなことを訴えていたんだ、知世子は自分の知らないこんな風景を見ていたんだって……。もっと声をかけてやっていたらよかった、そう思うんだよ」

楸邨は知世子の遺句を通して対話したことで、日常生活や自然の中で亡き人と対話するすべを身につけたのではないだろうか。

楸邨が亡くなったのは平成五(一九九三)年七月三日、享年八十八歳。亡くなった後も「寒雷」に楸邨の生前の未発表句がしばらく発表され続けている。逝去後の発表句が実際にはいつ頃の作かは推測し難い。綿虫の句は次の一句のみであるが、最晩年の句であることは間違いないだろう。

「息」が出てくる最晩年の句に〈ゆきむしを吹くときの息何処から出す  「寒雷」平成二(一九九〇)年十月〉があるが、二句を並べると「息」は命そのもののように感じる。近づく死を前に最期の「一息」を詠んでいるのではないだろうか。どこからか現れ、どこかへと消える綿虫は、亡き人の気配とともに自分を連れて行ってくれる。知世子亡き後の綿虫の句は亡き人との対話であり、それを重ねることで辿り着いた境地である。波郷の壮絶な〈綿虫やそこは屍の出でゆく門〉とは対照的な穏やかさがある。亡き人との対話によって自らの死を受け容れる平安を得たものと思いたい。

六、終わりに

楸邨の晩年の句としてよく紹介されるのが、『怒濤』に収められた〈ふくろふに真紅の手毬つかれをり〉〈天の川わたるお多福豆一列〉などである。これらの句を以て、晩年、新たな境地を開いたというような文章を度々見かける。しかし『怒濤』は知世子夫人への永別十五句で結ばれていて、その後の句はない。楸邨の最晩年と呼ぶべきは知世子亡き後の七年半である。この七年半の句を収めた句集は『望岳』であるが、これは大岡信の選による句集だ。選に漏れた句は顧みられる機会をほとんど失ってしまった。

今回考察した綿虫の句は『望岳』に収録されたのはわずかに一句のみで、最晩年の未収録の句が十一句もある。大岡信は楸邨との親交を見込まれて、遺族からの依頼で句集の選を行った。詩人ではあるが俳人ではない大岡は、それまでの作風からの変化に句を読み切れなかったかもしれない。あるいは、最晩年の綿虫の句を、句群として捉えず一句としての完成度から選をすれば、選から漏れるのは致し方ないことかもしれない。

しかし楸邨の作家像を完成させるには最晩年の句の評価が必要である。俳人の目で最晩年の句を読み直すことが求められている。最愛の人を失った楸邨がそれまでの長い人生をかけて向き合ってきた俳句に何を託して詠み続けたのか。それを抜きにして作家像は完成しない。最晩年の楸邨の句を読むことは、今を生きる我々にとっても、亡き人、亡き楸邨との対話なのである。

楸邨は俳句の中に自己を投影する。それゆえに句の考察が作家像へと直結した。また、生涯を通して同じテーマを繰り返し深化させていく作家である。そのことが一季語に絞っての考察を有効にした。どの作家にも当てはまる方法ではないかもしれないが楸邨句の考察には有効である。しかし、最初に述べた通り一季語に絞ることは作家の一面しか見ないことにもなる。他の季語の句を考察することで補っていくことが必要だ。それにより別の側面が見え、新たな発見も期待できる。その発見は一季語にとどまらず他の季語の読みの可能性を広げてくれると期待している。

加藤楸邨という森の、入口の一本の木を知ることで森全体へと期待が膨らむ。その森の広大さに圧倒される思いである。

(完)

受賞のことば

初学より歳時記の例句はあまり読まず、楸邨の句から同じ季語の句を抜き出してきて読んでいた。それをさらに徹底し、一季語の全ての句を年代順に読めば何かわかるのではないかと思いついた。

季語を通して作家の人生を俯瞰すると言えば聞こえは良いが、限られた時間のなかで最小限の文献だけで考察できるという点では夏休みの自由研究に打って付けである。本格的評論とはとても言えない。そのような文章とわかったうえで受け止めてくださった選考委員の方々には心から感謝申し上げたい。

楸邨が亡くなった後も「寒雷」に楸邨の句が暫く発表され続けたことに今回気づいた。寒雷に集う人々がどのような気持ちでそれを読んだのか想像するしかないが、そのような思いを馳せることができたのは思わぬ収穫であった。私が俳句を始めたとき楸邨はこの世の人ではなかった。師系にこだわり炎環を知り、楸邨と同じ時間を生きて来られた寒太先生の気息に師系を追い続けている。それはいつの日か、師系という曖昧なものよりは幾分かでも輪郭をもった、私なりの「心語一如」となると信じたい。

所謂名句以外にも楸邨の人生に深く根ざした句がある。それを多くの方に読んで頂くきっかけとなれば幸いである。