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しらべの不思議 Ⅶ

永田 吉文

既にお気づきの方もあると思うが、この「市中は」の一巻は、芭蕉と凡兆と去来との三人で巻いている。三人で俳諧(以下連句)を巻くのを「三吟(さんぎん)」という。二人なら「両吟(りょうぎん)」、四人なら「四吟(よんぎん)」といい、後は同様である。連衆が一通り付ける事(今回は発句から第三まで)を「一巡(いちじゅん)」といい、殆どの連句は、この一巡から始める、一巡の後は二通りのやり方があり、一巡と同じ順番で句を付け進むやり方を「膝送(ひざおく)り」といい、今回がこれに当たる。もう一つのやり方は、一巡の後、句が出来た連衆がどんどん付けてゆく方法である。これを「出勝(でが)ち」という。この出勝ちだと、ベテランに句数が片寄り、初心の連衆との句数に差が出るが、巻き上がる時間は早くなる。膝送りでは、初心者の番で時間がかかり、一巻が滞る場合がある。しかし、句数がほぼ同じになる利点もある。さらにベテランが揃った場合は、膝送りでも早く巻き上がることとなる。膝送りでは、この「市中は」の巻のように連衆の人数が奇数の場合、短句と長句の番が交互にくるので具合がいい、しかし、連衆の数が偶数の場合は、そのままでは同じ連衆が長句ばかりになったり、短句ばかり詠み続けることになり偏ってしまう。故に、例えば四人の場合、A・B・C・Dと一巡したら、次はB・A・D・Cと順番を変え、長句を詠んだ人は、次は短句を詠むようにする。それを「二とび四とび」といっている。

ここで、芭蕉以外の連衆を紹介する。

発句を詠んだ「凡兆(ぼんちょう)」は、野沢氏。以下、『俳文学大辞典』による。生年不明~正徳四年(一七一四)没、加賀国金沢に生まれ、京都に出て医を生業とする。元禄元年(一六八八)ごろ京都滞在中の芭蕉と会う。去来・其角・尚白らと交流。同三年、近江国国分山に住んでいた芭蕉は、京に出て凡兆宅に滞在する事が多かった。「市中は」の巻きは、この年のもの。元禄六・七年頃、罪を得て入牢。京払いとなり、以後大阪に住んだ。晩年は、夫婦で質素に暮らしたと。

第三を詠んだ「去来(きょらい)」は、向井氏。慶安四年(一六五一)生~宝永元年(一七〇四)没。享年五十四。肥前国長崎に生まれ、万治元年(一六五八)、八歳のとき京都に移住。一六歳の頃から筑前国福岡の叔父の嗣子となり、武芸百般の修行に励む。二十五歳ころ京都に滞在。以後は兄元端の医業を助け家政にあたる。親王・摂家や堂上家に出入りするも、主取りすることはなかった。俳諧は貞享元年(一六八四)、上方旅行中の其角を介して蕪風に近づき、芭蕉には文通して教えを仰いだ。同三年冬、江戸に下って初めて芭蕉に対面し、翌年春まで滞在した。元禄二年(一六八九)~三年、上方滞在中の芭蕉に親しく示教を得て、同四年に、凡兆と『猿蓑』を共編し刊行した。宝永元年(一七〇四)ころ成った『去来抄』は、私達に親しく蕪風を伝えてくれている。「市中は」に戻る。

  • 八 蕗の芽とりに行燈(あんど)ゆりけす 蕉

蕗の芽で季節は春。前句で蛙が春の季語として出てきたので、ここも春で続いた。春の季は最低三句続けるのがルール(式目)。行灯は携帯用の露地行灯。手に提げて歩く。前句が夕間暮れであった故に、ここも日暮れ時となっている。隣り合った二句は同じ時間で同じ場所。「草」に「蕗の芽(草)」で隣合っている場合は式目上OK。第三に「二番草」と「草」が一度出ているが、三句離れていれば(これを「三句去り」という)又出してもいいことになっている。同じ漢字も三句去り。なので式目に合っている。

連歌の式目の句去りの基本は五句去りだが、俳諧は三句去り。連句の句去りが短いのは、連歌の基本が百韻(百句)と長く、芭蕉たちの俳諧は歌仙(三十六句)であるのに由来するものと思われる。

八の句に戻るが、句意は、日暮れ時に蕗の薹を採りに出て、ふとしたはずみに手に提げていた行灯の灯を揺り消してしまったという。前句の叢の蛙に驚いた人物を、気の弱い女性と見て、八の句では、料理に使う蕗の薹を採りにゆく人物が、その手に持った行灯をゆり消してしまった、と付けている。この句を芭蕉の弟子の森川許六(きょりく)が、『俳諧問答』(元禄一〇年[一六九七])の「俳諧自讃之論」で、「この句、ゆりの字前句にもたれてむづかし、行燈さげ行くとしたし」と評しているが、どうだろう。この一句だけでも、夕間暮れに蕗の薹を捜している女性が、ふとした拍子に行灯を揺り消していることを的確に描いている。それはままあった事と思われる。それを前句と合わせて読むと、その原因が蛙であると解かる。前句がなくともその一句だけで内容があり、前句と合わせて読めば、さらにその内容が膨らんでいて面白く読める。「もたれかかっている」という許六の評はいかがなものだろう。この句を直さなかった芭蕉の判断の方を私は良しとする。