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炎環の俳句

2021年度 炎環四賞

第二十五回「炎環エッセイ賞」受賞作(テーマ「光」)

光を求めて

齋藤 卜石

私が四国お遍路に旅立ったのは一昨年の五月である。徳島で幼児期を過した私は、巡礼の旅姿をしばしば見た記憶がある。軒先に立ったお遍路に、母がお布施のお米を差し出す姿がいまも目に焼きついている。

“一度自分の足で巡礼してみたい“ この思いが永年胸の奥に燻りつづけていた。これが三年前に四歳違いの妹を亡くしたときに、一気に噴出したのである。

五月八日、羽田発のJALで徳島へ飛立った。翌日、第一番札所「霊山寺」の山門前で遍路指導者のSさんと会い、第三番金泉寺へ行くまでに作法を学んだ。

そこからはひとり歩き。背中に南無大師遍照金剛と書かれた白衣を羽織り、菅笠、数珠、鈴をもち金剛杖が頼りの巡礼である。

昔から白衣は死装束、杖は行き倒れたときの墓標と言われ、冥府を旅する死者の姿に他ならない。だが、お遍路はひたすら浄土を旅する徒ではない。お遍路が人々に尊ばれているのは、浄土から再びこの世の “光“ のなかに還ってくると信じられているからだ。

お遍路は弘法大師(空海)の霊跡をたどりながら、人間が人間のための救い、“光“ を求めて歩く聖地巡礼なのである。

それは私のような凡俗にもいたる所で体験ができた。行く寺々の本堂前に供える線香やローソクの光。本殿の薄闇を照らす仏灯それはまさしく煩悩の闇を照らす光だ。

第六番安楽寺では忘れられない経験をした。夕食の後に本堂で勤行があり、密教の作法に従い祈祷礼が読み上げられ皆で般若心経を唱えた。それが済むとお説教があり、ひとりひとりに笹舟が配られる。それを手に本堂に設えられた小流へ、ローソクを灯した笹舟を流した。めいめいの切なる願いを乗せて流れ行くローソクの光、光、光。それは、紛うことなく浄土へ向う光であった。

今思えば一日三十キロ近く歩いて辿りついた宿の灯りは、どんなにありがたかったことか。また、民宿の予約がとれず「善根宿」にお世話頂いた夜のこと。寒さに震えながら真夜中に部屋の外に飛び出して仰いだ星の光。満天の星の光は、プラネタリウムが好きだった妹の魂の輝きだった。

人間の世界は無常である。ただ、生きて死ぬ、それだけのことであるが、誰のこころにもその先の見えないものに触れてみたいという願いがあるであろう。お遍路は。無常の闇から人の世の光のなかへ循環する旅。自分の世界を越えたものへの憧れなのだ。

私は日々沸きおこる煩悩に悩みながら、何とか阿波、土佐三十九寺の満願を達成した。人は自分を育んでくれたこころの故郷へ帰っていくのであろうか。

満願を終え感じたのは、
“生きてることは素晴らしい“
という、光につつまれた喜びであった。

受賞のことば

この度「炎環」四賞の一つに受賞の栄を頂き有難うございます。常々、紙面構成並びに会員活動の充実ぶりに敬意をもつ者として喜びは一入です。

今回のテーマ「光」は、亡き妹の供養のため阿波、土佐を歩き遍路してきた私には、正しく時宜にかなうものでした。

そこで、この体験を出来るだけ自然体で書こう。作るという意識を離れてテーマに収束しよう、という思いでペンをとりました。

この意図がどこまで実現したのか誠に心もとない限りですが、過分の評価にあずかり改めて感謝いたします。

お陰様でこれを機に、本丸ともいうべき俳句にむかいあう気力が湧いてきました。

今後は芭蕉の “句作りに成るとすると有り“ という言葉を胸に秘め、“成る“ 俳句に一歩なりとも近づくことを目標に歩いて行こうと思っています。