ホーム
炎環の俳句

炎環四賞 第二十五回「炎環評論賞」受賞作

「楸邨の季語 - 『寒の石』『海月』『昆虫』についての考察」田辺 みのる

はじめに

本論は作家論とも季語論とも言えない。加藤楸邨の膨大な作品からごく一部の季語に絞っての考察である。これは楸邨という大海に漕ぎ出す前に、手近な海水浴場を泳いで海の一端を知った気になるのにも及ばない。一季語を以って他の季語の句を推し量ることはできない。しかしそこに楸邨の常に変わらぬ本質を垣間見ることができないとも限らないのではなかろうか。

私が惹かれた句の中から気になる季語を三つ選び、その一つ一つを見ていきたい。その三つとは「寒の石」、「海月」、「昆虫」である。この順で述べる。昆虫は季語ではないが、単に無季と割り切れないと思っている。

「寒の石」は、石に季感を見出だすこと自体が独創的だし、「海月」は歳時記に縛られない季感が魅力的である。「昆虫」は、無季を主張しない楸邨が敢えて季語を選ばなかったことに意図を感じる。

各論に入る前に、私の最大の関心は、季語よりも楸邨の作句態度であったことを申し添えておきたい。

一、寒の石

歳時記を開けば寒卵、寒鯉、寒鴉など、寒の季語は多数ある。その一方で、歳時記にない「寒の〇〇」の使い方もあるが、これはもちろん季語の「寒(寒の内)」に分類される。

「寒の〇〇」と言った場合、「〇〇」に中心がある場合とそうでない場合がある。例えば次の句、〈地震ありき寒の畳は目にはつきり『怒濤』〉、この句の「寒の畳」は地震の瞬間の畳。突然の地震にそのとき偶然目に入ったものが「目にはつきり」焼き付いたのであり、寒の季節の畳だからではない。もしかしたら畳替を終えて間もない新しい畳かもしれない。そうであれば色も匂いも印象深くなる。しかし畳替とは言っていない。この句は咄嗟の地震の瞬間である。地震の衝撃が圧倒しているはずだ。ならばこの句の場合、「寒の畳」の「畳」自体の季感は薄く、「寒」は意味としては句全体にかかるように思う。地震の起きたその時に、たまたま目に入ったのが畳で、その状況全体を「寒」が包んでいる。直接的には寒は畳にかかっているものの、便宜的にそうしただけではないだろうか。

一方、「寒の〇〇」を独立した季語のように使おうという意思を感じるものもある。それが楸邨の「寒の石」だ。

歳時記にある「寒の水」ならばよく使われる季語だ。直接触れたり飲んだり、五感に訴えるものがある。ところが「寒の石」となるとどうだろう。こんな季語を使った句はあるのだろうか。そもそも「石」自体が季節の移ろいと離れた存在で、季節を超えて膨大な年月を経てもあまり形を変えない存在だ。夏ならば、日に灼けた石、緑陰の涼しげな石などは季節を感じるが、肌寒さを覚える頃になると、石への季感の関心は薄れるように思う。秋の「冷やか」や、冬の「冷たし」を気温の変化のように石にも関心を持てるか疑問だ。ましてや厳寒の季節に、墓石や石碑に触れることはあっても、野の石に敢えて触れる人は少ない(ちなみに楸邨は氷る石に素手で触れている。〈氷る石は却つて熱し切々と 「郵政」昭和四三年二月号〉)。「寒の石」の句は次の一句。

なんという厳しさであろうか。石は何も語りかけてはこず、生命の感触がない。体温が石を温めることはなく、体の芯を冷やしてゆく。石自体がどこまでも静的な存在で死に近い。変化に乏しい石だからこそ季語に不向きなのだが、この句の場合は「寒の石」でなければならないように思う。

ちなみに『吹越』におけるこの句の直前の句は、

である。並べて読むと、もの言わぬ石に込めた思いを感じる。

次の句は「寒の石」ではないが「石に冷ゆ」。「寒の石」に通じるものがある。

季語を狼とすれば冬だが、狼は楸邨自身の投影として登場しているのであり、ここでの季語は秋の「冷ゆ」。ただし、秋風に吹かれ首筋が冷えたり、水に触れた手が冷えたりすることと比べると、この句の「石に冷ゆ」の季感は冬の「冷たし」に近いものではないだろうか。一時的な「冷ゆ」ではなく、立ち続けた結果、時間をかけて限りなく冷たくなってゆくような感覚。いずれにしても狼のように裸足で石の上に立つことはないので一般的な「冷ゆ」と同列に捉えない方がよいようにも思われる。

この句は三十句の連作で前書がある。

「信州・修那羅峠は海抜千米あまり、頂に子安神が祀られ、七百体近い神や仏の石像が並んでゐる、麓の人人の祈りを籠めたもので、神や仏があたかも人間のやうに、すぐ身近に感じられてくる 三十句」

ちなみにこの修那羅峠の三十句の十四句目がよく知られた〈霧にひらいてもののはじめの穴ひとつ〉という子安神の句である。〈神に仏になれぬ狼石に冷ゆ〉は二十九句目。その直前の句は〈石となり阿修羅となるも秋の暮〉である。ならば「神に仏になれぬ」とは石になれぬということでもある。どんなに冷えようとも生身の体の狼、それは楸邨自身の姿でもある。このような精神的極限を描くうえで「石」が大きな役割を果たしている。

石の季語は簡単に使える季語ではないが、従来の手近な季語では描けなかったものに迫ろうとする楸邨の思いが感じられる。楸邨が石に感じている季感は、夏の涼しげな石よりも、冬の厳寒の石に強く出るように思われる。例えば次の句。

季語は「凍つ」だが、「石凍つ」なのだ。しかも髄まで。「寒の石」もやはり髄まで凍てていたからこそ、何者にもその冷たさは緩むことがない。夏の季語の日雀が登場するが、かえって自然の厳しさが強調されている。

このように「寒の石」に楸邨が感じている季感を前提に読むと、「寒」の句に登場する「石」が単なる石ではなく、「寒の石」という季語に近い役割を担っているようにも感じられる。次の句がそうである。

季語は「寒に入る」だが、私は「寒の石」という概念が根本にあるように思う。髄まで凍てて、すべてのものを冷やす、冬の厳しさの象徴としての石、それが「寒の石」である。

「寒の石」の最初の発想は次の句ではないかと思う。随筆の中の一句。

「寒に入る」が時候の季語、あとは石のみ。その描写の「すさまじく光る」は楸邨の心情の表現とも感じられ、寒の石に思いを託している。この句が作られたのは一九四五年、終戦の年である。空襲で家を失った楸邨は仮住まいを転々とする。よく知られた〈飴なめて流離悴むこともなし〉の流離の時代である。「飴なめて」の句の前書に「仮寓を追はるる愈愈切なり、遂に十二月二十七日一家を率て学校の一隅に移らんとす、荷を負うて巷に出づ」とある。「寒に入る」の句は学校の一隅に移り住む直前、同じ十二月に作られている。

楸邨はこの頃、東京都高等学校教職員組合(楸邨は教員組合と呼んでいる。以降、楸邨の呼び名に倣う)の結成に奔走している。

随筆「石の机」の記述に、教員組合の会議と、学校の教科(国語)をどう生かすかの探求で、終戦の年の十二月は「はげしく疲れていた」とある。

流離のみならず公私にわたって疲労困憊の楸邨が石の句を詠むのはなぜか。「動きの激しい時に、動かない石を詠んでいる」理由を楸邨は「動こうとしても動かれぬ重苦しいものを感じていたからであろう」と述べている。

「寒に入る」の句は「十二月十一日と十七日の中間あたり」に手帳に書かれていて、句の後に走り書きがある。随筆掲載のまま記す。

「石を見る。戦中はもの言はぬ石も、もの言はんばかりの気魄があつた。圧えられてゐたからである。戦が終はつて、もの言ふもののみとなると、石は何も言はぬさまになつた」

この年の冬の激動を、楸邨は石に託して心に刻んだ。それは年月をかけて後年の句に結実していったのではないだろうか。すでに掲出した〈寒の石いつさい黙して死ねといふ〉の源が二十一年前の終戦の年の冬にあるように思われてならない。

もちろん石の句は冬以外にもある。〈寒に入る石すさまじく光るかな〉から四か月後の四月頃の次の二句。

一句目は随筆の表題句。「石の机」とは、戦後すぐの青空学校のこと。校舎が焼失した中での授業風景。楸邨はこれに教師としても作家としても勇気づけられ、この随筆を「作り手はまづ、やってみて、そこから手探りで次の一歩を確かめてゆくほかはないのではなかろうか」とまとめている。この句の中心は石自体ではなく、青空学校にある。春の雲が石に影となって流れてゆくが、石自体には季感は薄い。

二句目も同時期の句で、春の雲に春愁を感じても、石にはそれはない。一般的に春や秋の句に石が登場する場合、季節の影響を受けないものとしての石であり、移ろわない石が季節の移ろいを強調するのではないだろうか。

ところが楸邨は石を脇役にとどめず、石と一対一で向き合う。向き合い続けた結果、「寒の石」に結実していく。石に変化や動きがない分、その季感も表面的には感じづらい、内面的な季感となる。それこそが楸邨の独創ではなかろうか。

二、海月

海月は夏の季語。私も子供の頃、海水浴に行き、捕まえて水中メガネに入れて親に見せたことを覚えている。しかし楸邨にとっては海月の持つ季感は冬と思われる。それを示すのが次の二句。

楸邨が初めて隠岐を訪れた時の句である。隠岐への旅は、一九四一年三月二十四日から同月三十一日まで。暦では疾うに春であるが、雪の湾の光景は冬そのものであったと思われる。

前書から一句目は浦郷湾、二句目は由良比売湾と分かる。浦郷は楸邨が隠岐で最初に上陸した地である。由良比売湾は隣接する湾で同じ入り江の内にある。楸邨の海月の句はそれほど多くはない。楸邨はおそらく隠岐で初めて海月の句を詠み、その旅で七句、四十二年後に隠岐を再度訪れ一句詠んでいる。楸邨の海月の句は隠岐に始まり、その大部分は隠岐のものだ。

前掲の句の海月は海水浴で見かけるミズクラゲではない。おそらく二十一世紀に入って大量発生がたびたび報じられるエチゼンクラゲではないか。日本海側で見られる大型クラゲで、体長は大きいものだと傘の直径2メートルにもなる世界最大級の海月である。渤海、黄海、東シナ海で繁殖したものが対馬海流に乗り日本海沿岸を北上する。隠岐はそのルート上にある。大量発生の記録は古くからあるがこの年ではない。大量発生とまでいかなくとも、対馬海流に流されてきた海月が荒天時には湾にまで入り込む可能性はあるのではないか。隠岐は地理的にそうなる可能性が高い。

楸邨は荒天による欠航で松江で一泊している。翌日の隠岐は前日の荒波により海月が湾に大量に流れ込んだものと思われる。楸邨が隠岐に着いてすぐに目にしたのが湾の光景で、隠岐の光景として刻まれたのであろう。隠岐の湾の光景が、海月の季感として強い印象となったのではないか。「雪の湾幾千の海月」は楸邨の海月の原風景かもしれない。流氷のごとく湾を覆いつくす海月に圧倒され、海月の季感の根幹が形成されたと想像できる。

他の句も「雪の湾」を楸邨の海月の季感という前提で読むと合点がいく。

冬の寒さが残る春を、冬の季感の海月で表現している。前書「国賀の怒濤 三十句」の二十五句目である。浦郷湾や由良比売湾の入り江と違い、国賀海岸は日本海の荒波を直接受ける。その怒濤の中で海月がぶつかり合っているのである。

最初の隠岐の旅での海月の句は七句。この中にはよく知られた次の句もある。

私はこの句を長い間、心象風景と感じていた。海月に季感が希薄で実景であれば水槽の海月であろうと思っていた。だが真実は、「雪の湾」の句が、前書「浦郷湾 五句」の一句目で、「春愁や」のこの句が二句目、つまり雪の湾と同じ実景なのである。楸邨は現地の人から、エチゼンクラゲの出現が漁業にどれほどの損害をもたらすか耳にしていたかもしれない。そう思えば、春愁の実感もまた違ったものになる。

前書「菱浦解纜 六句」の二句目。春の闇なので暗くて海に海月は確認できない。しかし楸邨の目には雪の湾の海月が焼き付いて離れないのだ。そして同じ前書の直後の句、つまり三句目が次の句。

暗い春の夜に岩礁に打ち上げられた海月がかすかに光っている。寂しい景ではあるが直前の句からわかるように、楸邨は見えない幾千の海月を感じている。春の星と同じ数の海月を心に感じている。

初めて隠岐を訪れたときの海月の句は次の一句を入れて合計七句。

楸邨が再び隠岐を訪れるのは四十二年後、その時の一句が次の句。

この時の旅の日程は四月二十八日から五月一日。雨ではあるが松の芯から夏が近いことがわかる。しかし「海月漂ふ」と詠んだ楸邨は、四十二年前の雪の湾の光景をまざまざと思い出していたことだろう。

楸邨の海月の句は隠岐以外は少なく五句のみ。年代順に見ていくと、最初の隠岐から十年程して先ず一句ある。

夏の句である。しかし「海月は夢のごとし」なので灼けた有刺鉄線とは対極にあるはずだ。もちろん夏の海に浮かぶ涼しげな海月も対極と言えなくもないが、十年前の隠岐の雪の湾の海月を想えばこそ「夢のごとし」なのだと確信する。

楸邨は歳時記の解釈に句を寄せていくのではなく、自らの感性に従って表現している。

はたして我々は海月に夏を感じて句を鑑賞しているだろうか。海に自ら入り、刺されながらも手ですくい、五感で夏を感じ取る、そんな海月の句もある。その一方で、水族館の水槽の中の海月を詠んだと思われる句は多い。何よりも鑑賞する側が水槽の中の海月を思い起こしながら鑑賞してはいないか。詠み手と読み手の双方で季感が弱くなっているのかもしれない。

例として第二十三回毎日俳句大賞(二〇一九年度)の大賞受賞作を見てみよう。

作者は受賞の弁で水族館の海月の句と明言している。楸邨にも海月がぶつかり合う句がある。しかし掲句の観察の細かさは水族館の海月ならではだ。選者の正木ゆう子は選評で「私も鶴岡の海月水族館に行ったがこんな情景には気づかなかった。海月も人と同じ。とても面白い発見である。」と述べている。選者も水族館の海月を想定した上での選と思われる。だとすれば海月の季感は薄い。

一方、楸邨は公言こそしていないが、海月は冬と定めて揺らいでいないかのようである。自らが感じ取った季感が出発点なのだ。楸邨にとって海月は、終生、春まだ浅い雪の隠岐の海月だったのではないだろうか。

残り四句はいずれも季感は薄い。年代順に見ていく。

「海月のごときもの」がものを言うのであるから、当然「海月のごときもの」は人間である。海月のようにつかみどころのない人と人が真実に触れようと寄り合っている。ここでの海月は比喩であり季感は薄い。

句集中ではこの順で掲載されている。「暗き月」なので「みな動き」は実際に見えているわけではない。二句目も同じ景かと思われるが、そうすると夜の海辺ということになる。しかし単独の句としてみた場合、海月が透くのを観察しているのは水槽の前で、水槽を取り囲む人々の顔を「噓つきをり」と言っていると読んだ方が自然と感じられる。

いずれにしても二句とも季感は薄いように思う。ちなみにこの海月の二句の前後は秋の句が並んでいる。そのことからも夏を意識していたとは思われない。

海外詠であり、場所はシベリアだが、前書は「雲中航」なので飛行機の窓から見た景である。旅程は七月二十八日から八月十一日まで。夏の句として違和感はないが、海月は雲の比喩にすぎない。

以上十三句が楸邨の海月の句のすべてである。

三、昆虫

「虫」ならば秋の季語だが、この句の「昆虫」は蟋蟀や鈴虫などの秋に鳴く虫だけを指しているわけではない。昆虫一般であって、季節は特定できない。その意味では無季の句である。全句集の季語索引でも無季に分類されている。

しかし読み手は「死顔はかくありたし」と思う昆虫をいくつか思い浮かべる。そのとき季節を感じているはずだ。蜂を思う人には春の句となり、天牛なら夏、蟷螂なら秋の句となる。理想とする死に顔は人によって違う。共通するのは無機質な表情、特に目であろうか。

では楸邨の思い描いた昆虫は何か。楸邨の句の中から想像してみたい。

死に顔そのものの句であるが、美しすぎるように思う。写生の句と感じた。「昆虫」の句と同じ『野哭』の次の句には写生以上の眼差しを感じる。

月の擬人化に楸邨の優しい眼差しを感じる。このように楸邨が自己投影した昆虫と言えば蟷螂は有力候補となる。次の句は蟷螂に対する親近感がはっきりと表明されている。

しかし、次の二句は冷静な写生の目が感じられる。

蜘蛛に食われつつあり、死の間際であろうか。「みつめらる」も「寂」も写生の範囲内にとどまるとは言え、自己投影も感じられる。

死に抗う姿が見える。一見静かな無機質に見える昆虫の眼だが、もはや写生的に描こうとはしていない。眼の奥に念々を感じ取っている。

そして死が訪れる。

すでに「寒の石」の項で見てきたように、石は死のイメージを内包している。石の下から見上げる蟷螂の顔に「かくありたし」とは思ってはいないかもしれないが、否定的な印象はない。「死とはこういうものだ」という肯定ではないだろうか。楸邨が親近感を持った蟷螂ではあったが、誰もが思い浮かべる理想とした死に顔のイメージとは違うのかもしれない。

さて、「昆虫」に戻るが、蟷螂でないとすれば何であろうか。やはり顔立ちのはっきりしている昆虫とも思えるが、そうとも言えない。〈日本にこの生まじめな蟻の顔 『吹越』〉という句があるが、小さな蟻の顔の表情まで詠んでいるのだから、特定するのは難しい。

しかし季節の判断までも読者に託してしまうのはどうであろうか。前述のとおり蟷螂については、楸邨は親近感を持っていたが、誰もが描く理想の死に顔とは違うかもしれない。だが、私は季感から言えば、晩秋から冬が死のイメージに近いかと思う(ちなみに句集中の「昆虫のねむり…」の句の掲載順は直前が「鵙」、直後が「冬」が季語の句である)。ならば蟷螂が相応しいようにも思うが、蟷螂の顔を思い浮かべても、そこに理想を感じられない人も多いのではないだろうか。

これは個人の好みの問題でもある。ならば読み手が自分の理想とする死に顔を持った昆虫を思い浮かべるのが最善なのではないだろうか。これは季感よりも重視されるべき問題だ。これには反論はあるだろうが、昆虫の種類(季語)を確定して季節を限定しても、「かくありたし」と読み手が共感できなければ意味がないのである。読み手が思い浮かべた昆虫の種類によって季節が決定するのである。「昆虫」自体は無季であるが、自ずと思い浮かべた昆虫の種類に季節を感じながら読んでいるはずである。

楸邨にとってはこうする以外、楸邨が感じたことを正確に読み手に伝える術がなかったのではないだろうか。楸邨は季語や季感よりも「かくありたし」の心情を優先させる。

これも思い浮かべる昆虫の種類によって随分と印象が変わる。例えば蝶と蜻蛉では光り方も全く違う。これは季の違い以上に顕著な違いである。

翅音はどうであろうか。「高く光り」なので翅音が聞こえなくても問題はないが、私は翅音を思い浮かべ、零戦の音を思った。楸邨が具体的に想定していた昆虫の種類は見当もつかないが、昆虫の翅音で誰もが思い浮かべられるものと言えば、蚊、蝿、蜂などだが、蚊や蝿では全く句意に沿わない。蜂ならば零戦よりもB29と言うべきか。私が思い浮かべたのは玉虫である。しかし玉虫が飛ぶところに遭遇したことがある人はどのくらいいるであろう。私はただの一度である。それゆえ印象が深い。しかし聞いたことのない音は思い浮かべられない。私にとっては玉虫でなければ兜虫だが、それも聞いたことがない人には伝わらない。

やはり昆虫とのみ示し、読み手の経験に基づいた昆虫を思い浮かべるのが最良なのではないだろうか。この句を初めて目にしたときに、私は玉虫を思ったが、それはけっして一般的ではなく、むしろかなり稀な例であろうと思っている。蜻蛉の翅であれば秋の寂しげな感じもあり合っているようにも思うが、具体的な種類を示さず昆虫としたことで、読み手の人生経験も含めて直感的に閃くものがあるのではないだろうか。

上五の「戦死報」で句の骨格は決まってしまっているので、昆虫の種類もごく自然に思い浮かぶ。ただし、思い浮かべる昆虫の種類は人によって違うかもしれず、だからこそ読み手はこの句を自身の句として受け入れるのである。具体性のないことによってリアリティーを獲得しているとは言えないだろうか。

「昆虫」は無季ではあるが、昆虫の句を詠んだとき楸邨自身は季を意識していたはずだし、読み手も具体的な昆虫を思い浮かべて季を感じるはずだ。作者が感じた季(季語)を伝えることよりもより伝えたいことを優先して無季の「昆虫」を選択したが、読者は読者なりの季を「昆虫」から感じ取る。結果的に「昆虫」は季語のように機能しているのである。

楸邨の句ではないが次の一句を見てほしい。

この句の「触角」は昆虫のものだ。私は読んでとっさに天牛だと思った。「振り振りゆかむ」は力強く木を登る、堂々たる天牛のものと確信した。ところが有季を前提とした俳人の常識では、この句を夏ではなく、秋の虫と読むようである。鈴虫、松虫、轡虫など、どれをとっても私には違うように思えてならない。螽斯のように昼間に鳴く虫もいるが、いずれにしても秋の虫は草むらに潜み、用心深く触角を動かしながら、慎重に進む。大きな移動は跳躍、飛翔により、天敵を避ける。句の語感やリズムを考慮しても季語の虫のイメージとは違うように思う。

津川絵理子はこの句を評して「季語と相俟って、虫の強い生命力を感じる」(俳句あるふぁ二〇二一年春号98頁)と述べている。おそらく津川氏は、季語ありきを前提に正木ゆう子の句を読んだため、この句の場合、極めて自明な季語の省略と捉え、触角と言えば虫の触角のことという断定から、言わば隠し季語としての「虫」が触角によって示されていると考えたのであろう。その場合、自明な省略であるためには、蝶(春)、天牛(夏)、螽斯(秋)などの選択肢はありえず、「虫」以外の季語は考えられない。ちなみに、触角を持つのは昆虫だけではなく、昆虫以外の節足動物(蜘蛛、百足、海老、蟹、寄居虫)や軟体動物の腹足類(蝸牛、蜷)も含まれる。そのことは除外して考えたとしても、掲出の触角の句は無季の句という前提で読むべきである。

津川氏本人の評の「強い生命力」ならば、季節は夏、恐れるもののなきごとく触角を振る天牛の方が相応しいと私は思う。一読者として、誠実に読むならば、この触角は夜になると鳴く秋の「虫」のものではなく、夏の昼間に生を謳歌する「昆虫」のものであることは譲れないと思っている。季を本当の意味で尊重するというのはどういうことなのか、一考に値する。表面的な有季、無季ではなく、句の季感を読み取ることが大事なのではなかろうか。それが作者の手を離れた作品に対する読者の誠実であると思う。

このように考えると、楸邨が「昆虫」を選択したことは理にかなっている。読者はまずは句全体から季を感じて、自由に自分のイメージに合う昆虫の種類を選ぶ。季節が無いわけではない。むしろ読者が季を感じることを尊重すればこその「昆虫」であるのかもしれないのだ。

以上で「昆虫」の考察を終えるつもりであったが、句集中での「戦死報」の句の並びを確認したところ『颱風眼』の四句目で前書があった。そこには「知友戦死 二句」とあり、「戦死報」の句が一句目、二句目は〈蟬の子に父還るべき夏きたる〉である。

こうなると「戦死報」の句の「昆虫」は蟬である可能性が高くなる。蟬であれば「翅高く光り」は飛んでいるとは限らず、木のたかい所にとまっているのかもしれない。

しかし連作とはいえ一句目の「昆虫」は二句目の蟬だと単純に断定してしまうと、なぜ「蟬の子」の句を一句目としなかったのか(そうすれば二句とも蟬と違和感なく読める)、なぜ一句目を蟬ではなく敢えて「昆虫」と言わねばならなかったのか(楸邨の句はそもそも字余りが多いし、音数調整をしたとしても昆虫は普通候補にあがらない)説明がつかない。やはり「蟬の子」の句に囚われず、まずは独立した一句として考察すべきであろう。以上のことから、当初考察した過程をそのまま修正せずに書き置くこととする。

なお楸邨の無季の句は九十句以上あるが「昆虫」の句は二句のみである。

おわりに

海月の句を考察するにあたって、紀行随筆の『隠岐への旅』を読んだ。バスの終点の別府で降りて黒木御所への徒歩十分程の間に歩きながら考えていたことが書かれているが、これが四頁にわたる俳論なのである。

それは「伝統と因襲の混同」から始まる。「俳句の十七音にせよ、季にせよ、因襲として使っているに過ぎない場合が随分多い」と述べているが、この後展開されるのは十七音論であり、季語についての言及はない。その核心部分を紹介する。

「伝統は疑いぬいて、血肉化された歴史だ。十七音を一度疑いぬいて、もう一度我々の立つところに於て新たに生みかえすことだ。(中略)もう一度、自分の、ここで、この心で、生みかえしてゆくのだ。これは、十七音でなくても理屈ではよいという反抗精神を通って伝統を生みかえす精神だ。」

この後、楸邨は芭蕉についても言及し、芭蕉の十七音が「反抗しぬいて」新たに生みかえされた十七音であることを述べているが、季語についての言及はやはりない。この紀行随筆中の俳論部分の最後の段落をそのまま引用する。

「私がいいたいことは、とにかく、俳句の十七音に甘んじきれぬものが、却って十七音を生かす重さであり、季に就ても、季に甘んじきれぬ心が、季を重くするものだということなのだ。だから、趣味的な因襲には出来るだけ従わないで、伝統としてのそれを、自分の現実の心で生みかえしてみたいという念願を持ちつづけたいと思っている。」

このように十七音論というべきものは、「十七音にせよ、季にせよ……」から始まり、「季に就ても……」で終わるのだが、季への具体的な言及はない。その精神は十七音の場合と同じだということであろう。すなわち、因襲に従わず、自分の現実の心で生みかえすということ。その決意を以って実作に臨んでいる。そうして生みかえされたのが「隠岐紀行」百七十六句である。その一端を海月の句から垣間見ることができた。

この「自分の現実の心で生みかえす」ことは、隠岐以前からのものだ。楸邨の最初の句集『寒雷』の後記に「自分と俳句とを一枚にしてしまおうと力めた。自分の外に美の世界を築くことを止めて、自分の中に、自分と共なる姿を見ようとした」とある。このようにして生み出されたものの一つが「寒の石」である。これは観念的で難解なことも否めないが、楸邨の誠実な作句態度の結果なのだと思う。季語を道標として石の句を読み進めたことで、難解であっても寒の石の句に私が惹かれたものが何であったのか辿ることができたように思う。

「昆虫」についても同じ作句態度からくるものだ。楸邨の「自分の心で生みかえ」された「昆虫」は、読者にも自分の心で生みかえし選び取る過程を求める。それは作家の傲慢ではなく、最も伝えたいことを読者と共有するために必要な過程である。

このように形の上では「昆虫」は無季であっても、季を軽視しているのではなく、むしろ季を尊重した結果であった。「海月」も自らが感じ取った季感を突き詰めた結果、季重なりを厭わぬ独自の季感を築いた。石そのものにも季感を見出だそうとしたことは、楸邨が如何に季を重視していたかを示している。

偶然選んだ二つの季語と「昆虫」には、想像していた以上の世界が広がっていた。楸邨という大海の澎湃たるを思うと、楽しみであると同時に眩暈すら覚えるような心地である。

(完)

【参考文献】

受賞のことば

一年前、炎環評論賞への応募を思い立った。昨年の応募者に句会の仲間の名を見つけ、触発されたからだ。昨年の炎環賞への初挑戦も同様の経緯だった。賞への応募などまだ何年も先のことと燻っていたものが、炎のごとく燃える仲間の環の中にいると自然と自分にも火がついてしまう。

初学者が俳句を実作しながら評論を書くということ、それは、学びながら書き、書きながら学ぶこととなる。初学者の実作上の課題と言えば季語。テーマとなる季語の句を抜き書きしそれを年代順に並べそこから見えてくるものを検討する。そうすればその作家の、季語に対する把握、解釈が分かるだけでなく、自分の作句にも活かせる。そう安易に考えていたが、そう単純ではないのが楸邨という作家である。

海月の句に季重なりが多いのは以前から気づいていたが、並べて読むと、夏の季感を正面から捉えた句が全くない。楸邨の真意を探るため、句集を読み、句集の流れの中で読み直した。隠岐の旅の句とわかり紀行文を読んだ。調べる度に新たな疑問も湧いてくる。考察を終えて論をまとめたのではなく、書きながらの考察となった。

読書量が圧倒的に足りない。そのような文章に目を通して下さった主宰と選考委員の方々に感謝申し上げる。楸邨という大海にようやく漕ぎ出したばかり。見守っていただければ幸いである。