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「炎環」特別記念企画 - 500号を振り返る

第3回:「炎環集」の誕生

 雑誌のタイトルは、1号から46号までが「無門」、47号から90号までが「Mumon」、そして91号から現在の「炎環」となりました。
 91号は1988年1月号、石寒太氏を主宰とする俳句結社「炎環」のスタートはここからです。

 その石寒太主宰が、第二句集である『炎環』を刊行したのは58号のとき(1985年4月)。
 ですから、雑誌(および結社)の「炎環」という名称は、句集『炎環』から来ているのかと思いきや、さにあらず。

 遡ってみれば、「無門」20号に、早くも、「炎環集」というページが現れているのです(1982年1月)。
 「炎環」という名称は、句集『炎環』の3年前、結社設立の6年前から、雑誌「無門」における作品集のタイトルとして使われ始めていました。

 「炎環集」とは、「無門」に参加する仲間が、自選の作品を投稿する(発表する)場として設けられたものでした。
 前回、この雑誌の起源が単純な句会記録であったことを見ましたが、その単なる句会記録にすぎなかったものが、参加者自選の作品集を設けるに至ったというのは、画期的なことです。

 今回は、この「炎環集」が誕生するまでの過程を追ってみます。
 それでもそれは、1981(昭和56)年後半のわずか半年のうちに起こった出来事です。

 まず、1981年7月、それまで手書きの印刷(ガリ版?)でぺら紙だったものが(それはとても雑誌とは呼べない代物が)、装いも新たに、タイプ打ちの印刷、袋綴じの冊子となって現れます。
 しかもタイトルには、「発行人 石寒太」という文字が堂々と記されています。

「無門」15号。大きさはB5サイズ。袋綴じで8ページ。

 この15号の巻頭に、発行人である石寒太氏は、次のような文章を載せました。

「無門」の出発について

 「無門」はその名の通り、大道にして無門である。自由である。結社でもなければ、同人会でもない。俳句の好きな個性の集まりである。必要とする人が来り、求めるところが無くなれば散る。三三五五寄り、飛花落花のごとく消える。だから、結社のように多くの人数も要しない。ただひとにぎりでいい、個性豊かな者が、己れの光を放ち合いながら燃焼する。その光ある限り―。「無門」に上下はない、年齢もない、ましてむづかしい規約などない。あるのはひとりひとりの俳句そのものである。
 何とはなしにはじまった「無門」が既に十五回を重ねるという。まさに継続は力である。幸い誰ひとりやめたいという者もなく、むしろ新しい個性はふえる一方である。たまたまこの機会に、タイプ印刷の技を提供してやろうという奇特な人があらわれた。嬉しいことである。新装された「無門」誌を手にして、より一層の研鑽を重ねたいと思う。

石寒太

 ここで石寒太氏は、「大道にして無門である。自由である」と、句会の精神を高らかに宣言しています。
 手書きのぺら紙がタイプ打ちの冊子になったこと、それが無門の「出発」であるかのごとくに見えますが、その背景には、ここまで句会が「継続」したという自信と、実際に「個性豊かな」集まりになったという自負があったのでしょう。

 この15号で、体裁はたしかに一段とよくなりましたが、その中身はといえば、あいかわらず句会記録です。
 1981年7月4日から一泊二日で、長良川の鵜飼見物に出かけた無門一行は、往き帰りの車中も含め、全部で4回の句会を行いましたが、15号にはそのときに詠まれた句が丁寧に記録されています。

長良川鵜飼吟行の記録。それだけで7ページに及んでいます。

 さて、つづく16号は、1981年8月9日の奥多摩吟行の記録です。
 後記によると、「奥多摩に河鹿の群棲地がある、と作家の瓜生卓造氏よりお誘いいただいて、夏休みの一日、近くの仲間と吟行に出かけた」とのこと。

 ただ16号では、句会記録の前に、参加者の一人が綴った本格的な随筆を載せています。
 やはりタイプ印刷の効果でしょうか、「単なる句会記録」から一歩前進した感じです。

 また巻末の「お知らせ」に、次のような記事があり、目を惹きました。

 無門句会も回を重ねる度に、皆様の熱心な発言が多く普通の句会よりは多少でもつっ込んだ勉強ができるのではないかと喜んでおりますが、十月からは寒太氏の企画で、俳句と同時に俳諧の古典を勉強することにいたしました。
 吟行の時は無理ですが定例句会の時は、毎回、最初の一時間、「三冊子」を読む事から始めたいと思います。

 炎環でも、まさにいま、有志の発案により、「三冊子」の勉強会を定期的に行っていました。
 しかし残念ながら、コロナ禍により中断を余儀なくされています。

「炎環」474号(2019年12月)に掲載された「『三冊子』を読む 第1回」。こうして雑誌を通じ、勉強会の成果を会員全員と共有。

 さて話を戻して、つぎの17号。
 ここで「無門」は、また一つ大きく前進します。

 なんと、タイトルの下に「十月号」と書かれているのです。
 そして巻末には、いわゆる「奥付」がしっかりと印刷されています。

 すなわち、この17号をもって、「無門」はついに月刊誌となったのです。
 句会や吟行の都度、その記録として発行するというのではなく、毎月1回、日を定めて発行することにしたのは、雑誌化への大きな一歩です。

奥付には「無門 十月号 通巻十七号」「昭和五十六年十月一日 発行」と明記。

 しかも、この17号では、「無門二十代作家特集」という企画を組んでいます。
 そこでは、筑紫磐井・正木ゆう子・村木まゆみ・横山和美の4氏が、それぞれ10句ずつ、作品に題名を付けて発表しています。

 この「特集」で注目すべき点は、各氏が無門の作家であるという自覚を共有していること。
 そして「特集」の後半には、今井聖、安土多架志両氏による作品評を載せており、雑誌の企画として完結することを意識している点です。

 この「特集」のあとは、例によって8月23日の芭蕉記念館における句会の記録ですが、「特集」の重さに比べると、句会記録が付録のようにさえ見えます。
 全体でわずか6ページの冊子とはいえ、「単なる句会記録」から「月刊誌」へと大きく舵を切った記念すべき号です。

 18号(11月号)は、巻頭の随筆と、9月27日に横浜外人墓地、港の見える丘公園などを吟行しての句会記録で、全4ページ。
 19号(12月号)は、巻頭の随筆と、10月25日の定例句会の記録で、全6ページ。

 そしていよいよ20号、「炎環集」の登場です。
 20号は1982年1月号で、その巻頭には石寒太氏をはじめ3名の随筆が並び、それに続いて「炎環集」が見開きでドンと展開されます。

 そこにあるのは、題名付きで3句ずつ、18名の作品。
 「炎環集」のタイトルの下には「自らを熱すれば火となり、その熖は輪を形成して天を駈く」という言葉が添えられています。

 ところが不思議なことに、この「炎環集」についての趣旨とか抱負とか、これを設けるに至った経緯とか、「炎環」という言葉の由来とか、そのような説明が20号のどこにもありません。
 それらのことが初めて語られたのは、1年後、すなわち31号(1983年1月)においてでした。

(次回に続く)


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