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「炎環」特別記念企画 - 500号を振り返る

第2回:謎の第1号

 2022年の「炎環」2月号が、この雑誌の第500号となります。
 しかし、その第1号は、実のところ「炎環」ではありません。

 「炎環」の前身に「無門」という雑誌があり、その「無門」の創刊号を第1号として、そこから数えての第500号なのです。
 ちなみに、「無門」が「炎環」と形を変え、新たなスタートを切ったのは(つまり「炎環」創刊号は)、通巻でいえば第91号に当たります。

 では、起点となる「無門」創刊号は、いかなる雑誌で、いつ発行されたのでしょう。
 結論を先に言うと、それが謎なのです。

 今回、500号の歴史を調べるために、石寒太主宰や炎環の古参の方から、古い雑誌の資料をお借りしました。
 しかしその中に、「無門」創刊号はありません。

 石寒太主宰が資料を送ってくださったとき、それに添えられた書状には、以下のように記されていました。

お送りするのは、No.11、No.12です。これより前は、染谷佳之子さんの手書きの句会報のようで、講評などの文章は入っておらず、句(作者)のみのようです。但し、No.1からNo.9までは手もとにありません。

 いま入手した資料の中で最も古いものは第11号です。
 それは、手書きのプリントで、内容も単なる句会の記録です。

 第11号は「昭和五十六年四月五日」の「横浜中華街」での句会の記録。
 第12号は「昭和五十六年四月二十九日」の「関口芭蕉庵」での句会の記録。

11号。B5サイズに手書き印刷でこの2枚のみ。もしかするとあと何枚かを欠いているのかもしれません。「無門」の題字は石寒太氏書。

12号。B5サイズに手書き印刷で5枚。1日に3回行った句会の記録に、正木ゆう子氏自筆の感想文が添えられています。

 このように「無門」はもともと、単なる句会の記録であり、当時は雑誌として発行するというような意識はまったくなかったようです。
 「無門」とは、その句会の名称であったといえましょう。

 では、それはいつから始まったのか。
 句会「無門」の第1回は、いつ、どこで行われたのか。

 しかし前述したように、それについての記録はありません。
 それを知る手掛かりとしては、第90号に石寒太氏の次のような記述があります。

今月で「Mumon」がちょうど九〇号となる。昭和五十五年の冬以来、七年間発行しつづけたことになる。「寒雷」の有志五人ほどではじめた。その後、「海程」「沖」「れもん」(旧)「風」「ホトトギス」などに属する若手も巻込んで、超結社の勉強会として発展した。

 「無門」は、〈七年間〉の歳月のうちに、句会記録から同人雑誌へと姿を変え、誌名も後に「Mumon」と改められて、いま〈九〇号〉を迎えたというのが、上の記述の内容です。
 ここに、その開始時期として、〈昭和五十五年の冬以来〉と記されています。

 昭和五十五年の冬といえば、石寒太氏の第一句集『あるき神』が刊行されたころのこと(1980年12月25日発行)。
 当時、石寒太氏は37歳、師である加藤楸邨の厚い信頼を得、生業の傍ら結社誌「寒雷」の編集同人として腕を振るっていました。

90号。これが「Mumon」の終刊号。91号から「炎環」になります。

 さて、もし句会「無門」の第1回が1980年12月だったとすると、1981年4月5日には11回を数えていますから、この4か月の間に、かなりの頻度(月に3回のペース)で句会を開いていた計算になります。
 それもあり得ないことではないとはいえ、当時、それぞれ勤め人であった若手俳人が、毎週のように句会に集まるというのも、あまり現実的ではないかもしれません。

 そこで、句会「無門」の第1回がいつであったか、石寒太主宰に直接尋ねてみました。
 すると、「『あるき神』よりはもっと前だったと思うが、いまとなってはよく覚えていない」とのこと。

 かりに毎月1回ずつ開催していたとすると、1981年4月の11回から逆算すれば、1980年6月が第1回となりますが、これも推定の話。
 ことほどさように第1回の時期を特定することは難しく、ここでは、1980年の後半年のどこかと、ざっくり捉えておくことにしましょう。

 いずれにしても「炎環」誌の起源が、単なる句会記録であったことは間違いなさそうで、となれば、現在の「炎環」誌の中で最も古く伝統のある企画は、「各地の句会」のページであると言ってよさそうです。
 結社誌が句会報を載せるというのはごく一般的なことですので、それを伝統だなどとことさら自慢するのもなんではありますが、やはり俳句という文芸は、句会が原点であるということをあらためて認識させられます。

 そしてこの句会報、よくよく仔細に見れば、配列の仕方や記載する情報については、さまざまな様式があるものです。
 現在の「炎環」では、主宰選のランキングにしたがって参加者全員の句(ただし一句のみ)を漏れなく列記、主宰句と互選の得点は不記載、というスタイルをとっています。

 「無門」の初期、まだ句会報がメインであったころは、句を互選の得点順に配列し、それぞれの句の選者名も併記して、無点句については作者名なしで記載するかまたは不記載と、まとめ方に丁寧な配慮が見てとれます。
 しかし、「無門」がやがて同人誌へと発展すると、作品集や評論などの厚みが増す一方、句会報の比重がしだいに小さくなり、28号からは、得点句を点数順に並べるだけのシンプルなものとなりました。

 記録としての句会報は、こうして1号から500号まで脈々と続いていますが、現在の「炎環」誌には、「心語一如の交叉点」というもう一つ別の句会報もあります。
 「心語一如の交叉点」は、394号(2013年4月号)から始まった企画で、句会における議論の内容に焦点を当てた、結社誌としては異色の句会報です。

2022年1月号の「心語一如の交叉点」

 では最後に、「無門」という名称の由来について。
 31号(1983年1月号)に石寒太氏による以下のような記述が残っています。

よく、「無門」の誌名について訊ねられます。これは染谷佳之子さんの命名です。第一回の句会を開くにあたり、彼女が会場を区民会館に求めてくれました。その折、係員から「会名のない団体には会場を貸すことはできない」といわれ、咄嗟に会名の欄に書き込んだのがこの「無門」の二字でした。いかにも仏教に造詣が深い佳之子さんらしい言葉だと思います。(中略)染谷さんは、「必要上〝無門〟としておきました。第二回目からは正式に会名を決めて下さい」といわれました。生来なまけ者ゆえそのまま「無門」を踏襲しましたが、実は私はこの名前がすこぶる気に入っていました。

(次回に続く)


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