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読みにくさについて

田島 健一

穂村 いま時代全体の趨勢として、「ワンダー(驚異)」よりも「シンパシー(共感)」ですよね。読者は驚異よりも共感に圧倒的に流れる。ベストセラーは非常に平べったい、共感できるものばかりでしょう。以前は小説でも、平べったい現実に対する嫌悪感があったから、難解で驚異を感じる、シュールでエッジのかかったものを若者が求めていた。でも今は若者たちも打ちのめされているから、平べったい共感に流れるのかな。

長嶋(※) 打ちのめされているのか(笑)。

穂村 すると、詩歌にあるような、言葉と言葉同士が響きあう衝撃みたいなもの、俳句でいうと切れになるような感覚は、圧倒的に読みにくいという話になりますよね。

(「どうして書くの?」穂村弘 対談集(筑摩書房))

  • 長嶋有(作家・エッセイスト・俳人)

本書によれば、この対談は2005年のものらしいが、穂村弘の分析は鋭く、「ワンダー(驚異)」よりも「シンパシー(共感)」へ流れる傾向はその後もより強まっており、特に2011年3月11日の東日本大震災以降、さらにその傾向に拍車がかかっているようにも感じられる。

それは、つまり「いま、ここ」に存在しないものに形をあたえる力学に対する態度の問題で、もっと正確に言えば、形を与えられないものを無条件で受け入れ、その懐で遡及的にイメージ化されていく、というプロセスについての躊躇あるいは欠落の問題なのである。あの震災で発生した巨大な津波は、生命や国土やその他さまざまな物質を流し去っただけでなく、そのような人間の「感性」そのものにも、どうやら大きな影響を与えつつあるように思われる。つまり対談の時期と異なる点があるとすれば、現在「打ちのめされている」のは、「若者」だけではなく「日本人」全般である、と言うことができるかも知れない。

この穂村の分析にひとつ付け加えることがあるとすれば、この「シンパシー(共感)」というものは、単純に「日常性」と結びついているのではなく、むしろ360度転回した後、あたかも「あたりまえのようだが、あたりまえでない」という文脈の上で、自分たちの感覚と結びついている、と信じられていることだ。

けれどもほとんどの場合、そのような「あたりまえでない」文脈は、書かれた句の読みを定めるコンテクストとして外在化しているだけで、作品としての句そのものには書き込まれていない。実は、そこでは360度の転回などはされておらず、つまるところ、そのような作品は「あたりまえのようだが、あたりまえでない」という顔をした「あたりまえ」の作品なのである。作品における「ワンダー(驚異)」は、言うまでもなく俳句作品の上に構造として「書き込まれる」のであり、その具現化したものの一例が、穂村が指摘する「俳句でいうと切れになるような感覚」なのである。

ここで穂村が「ワンダー(驚異)」という言葉を選んでいることに注目したい。それは例えば「ワンダーランド」というような空想的でポジティブな響きを持っており、何か、素敵なものを読者に運んできてくれるように感じるかも知れない。けれどもそれは全く逆であり、そのような「ワンダー(驚異)」は、読み手を疎外し、拒否し、反撥しまくるので、読み手にある種の「強靭さ」というか「図太さ」のようなものを要求する。それが「圧倒的に読みにくい」ということになるのだが、言い換えれば、それこそが「面白さ」への入り口なのである。

これは短詩形の宿命と言うべきかも知れないが、定型として書かれたその瞬間に、そこに一種の「ゆがみ」が現れる。それが、そこに書かれた「以上」のものとして、「意味」を運んでくるのだ。

そういう句は、読者に問いかけているのだ。

おまえは「物語が聞きたいのか、それとも生きたいのか」、おまえの望むものは「冒険譚か、それとも冒険そのものか」と。