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炎環の俳句

2022年度 炎環四賞

第二十六回「炎環エッセイ賞」受賞作(テーマ「未来」)

未来のカメラ

白夜 マリ

 カメラ好きで有名な俳人といえば石田波郷である。東京・砂町の波郷記念館には波郷が愛用したカメラが展示されている。

 波郷は結核療養中に写真を始めた。同室の患者が写真を撮るのを見て「俺にもできる」と考えた。義弟のカメラを借りて近所の神社で息子や娘を撮っていたが、ほどなく「カメラ熱」の「余病を併発」した。

 「ローライならいくら大きく伸ばしてもぶれがない」と当時で十万円以上、家が建つほどの値段の舶来品ローライを、妻が家計を節約してためたカメラ貯金によって購入した。さらに「旅行にはやっぱりライカだな」と十二万円のライカも手に入れた。

 写真に興味のない人にとっては、なぜ二台もカメラが必要なのか不思議に思うだろう。実はこれがカメラ熱の症状だ。理由をつけて何台も所有しそれを持ち歩くのだ。「侍は、打刀と脇差を二本差しするものだ」とカメラ熱に侵された画家は言った。

 カメラ熱は蒐集だけにとどまらない。波郷は来客があればカメラを取り出し、近所の散歩にも、句会や旅行にもカメラを持参した。また写真は引き伸ばして進呈していたので近所の写真店に払う代金が馬鹿にならないほどカメラを使うことにも熱を上げた。

 ところで携帯電話が普及して誰もカメラを買わなくなった。ニコンは一眼レフの国内生産を止め、オリンパスはカメラ部門を売却した。カメラは絶滅してしまうのだろうか。

 確かにスマートホンは優秀だ。搭載されたカメラは卓上のラーメンから天空の月まで良く写り動画も撮れる。GPSで場所を記録しSNSもできる。これこそ時代が求めたカメラの未来像だ。否、これは電話の進化形だ。

 カメラが未来に生き残るには何が必要だろうか。それは味のある写真が撮れるかどうかにかかる。味のある写真とは、理由は謎だがなぜか好感を持ってしまう作品だ。そこで、その謎について説明を試みたい。

 レンズを通過したすべての光をカメラ自身が記憶し、それが育っていくことを考えた。言いかえればカメラに光が棲みついて意志を持つのだ。だから使いこまれたカメラは自らの意志により、持ち主の実力以上の写真が撮れるようにそっと後押しをする。その結果、味のある写真ができあがるのだ。まるで怪奇現象だが、昔から大切に使った道具には、つくも神が宿るという言い伝えがある。

 味のある写真が撮れる怪奇な未来のカメラは最新のデジタル技術とは別の方向へ進む。カメラ熱によりカメラを何十年も慈しんだ末に何かが出現するのだ。機種更新が凄まじいデジタル機器はそれを待てない。

受賞のことば

 このたびは、炎環エッセイ賞にご選出いただき、誠にありがとうございます。これもひとえに、みなさまのお力添えの賜物です。日頃から句会は勿論のこと、二次会、三次会までつきあっていただく主宰をはじめ、同人、句友に感謝します。

 受賞作品は、カメラ好きの俳人、石田波郷が実際に使っていたカメラを見て、未来のカメラを空想したものです。デジタル化によって誰でもきれいな写真が簡単に撮れてしまう時代に求められるカメラを考えました。

 執筆中の発見は、波郷が、近所の写真店の支払いが大変になるほど「写真は引き伸ばして進呈していた」ことです。私も波郷の真似をして、撮った都度インスタント写真の進呈を始めました。写真を手渡して、それが喜ばれ、または批評され、一枚の写真から広がるリアルな人づきあいを楽しんでいます。

 さて散文の次は本丸、韻文です。主宰からは「韻文をやらないのなら来なくていい」とよく揶揄されます。私の十七音は、俳句になっていないのでしょう。いつか世界最短詩型文学、俳句を作れるように励んでまいります。