2025年11月
ほむら通信は俳句界における炎環人の活躍をご紹介するコーナーです。
炎環の軸
- 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)11月号の「作品21句」に石寒太主宰が「牛のこゑ」と題して、〈秋の雲生後三日の牛のこゑ〉〈生まれたる仔牛みがきし大花野〉〈霧の牧牛の反芻ゆたかなり〉〈いくたびも師の文読みし海霧の夜〉〈がん告知のはるかとなりし雁来紅〉〈霧深し人だますならこんな夜ぞ〉など21句を発表しました。
- 総合誌「俳壇」(本阿弥書店)11月号の特集「生誕一六〇年 村上鬼城――境涯の俳人」に石寒太主宰がエッセイを寄稿、「村上鬼城―生誕一六〇年と楸邨」と題して、〈ことしは村上鬼城生誕一六〇年、そして加藤楸邨生誕一二〇年というひとつの節目を迎えた。この時期に再び鬼城の生涯と俳句を再検討することは、とても意義深く大切なことだ。村上鬼城の作風は、大きく分けてふたつの特徴をあげることができる。ひとつは、骨格の太い句風である。例えば、「ゆさゆさと大枝ゆるる桜かな」「残雪やごうごうと吹く松の風」 いまひとつは、小動物への憐れみの句風である。例えば、「治聾酒の酔ふほどもなくさめにけり」「冬蜂の死にどころなく歩きけり」 このような生きものを対象にした境涯句群は、鬼城には大変に多く、大須賀乙字や虚子が絶賛したばかりか、多くの俳人たちは鬼城自身の境涯と重ね合わせて称賛している。乙字は「古来境涯の句を作つた者は、芭蕉を除いては僅に一茶あるのみ。其余の輩は多く言ふに足らない。然るに明治大正の御代に出でて、能く芭蕉に追随し一茶よりも句品への優つた作者がある。実にわが村上鬼城氏其人である」と持ち上げて言う。加藤楸邨は、こんなふうに書いている。「秋櫻子門に入る前は、粕壁中学の教員たちは村上鬼城の門下であった。私も村上門下は先ず『鬼城句集』を読めというので、『鬼城句集』を懸命に読んだ。私は『鬼城句集』で下ごしらえした上で秋櫻子門下になったわけで、一つの仕合わせだったと思っている」。こんなふうに、村上鬼城の俳句や生涯をたどってみると、一茶・鬼城・楸邨という境涯俳句の系譜がみえてくる〉と述べています。
- 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)11月号付録『季寄せを兼ねた俳句手帖2025-26〈冬・新年〉』が《一の橋しぐれ二の橋
霽 れにけり 石寒太》を採録。
炎環の炎
- 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)11月号が「第71回角川俳句賞」を発表。応募総数601篇(1篇50句)の中から予選を通過した44篇を対象に4名の選考委員(小澤實・対馬康子・岸本尚毅・仁平勝の各氏)がそれぞれ最も推薦する(◎)1篇、推薦する(○)4篇を選出、その結果を受け最終選考会の討議を経て受賞作を決定。
・対馬康子「○」中嶋憲武作「配膳」=選考座談会において対馬氏は、〈「配膳」という題にふさわしく、断片的に差し出される映像や感覚が、ひとつの膳の上に並んでいるかのような連作感を持って面白く読みました。《胸しろき蝉を拾ひし旗日かな》《店番の猫の真四角金木犀》《ボウリングピン立つ廃墟渡り鳥》など、蝉と旗日・店番の猫・ボウリングピンと廃墟といったすでに時代の懐かしさがある対象物によって、光景が鮮明に切り取られています。《枯葉から大きな翼出てゆきぬ》は、落葉の間から鳥が飛び立つ場面を捉えていますが、「枯葉」と〈大きな翼〉との対比が生と死、滅びと再生を感じさせ、終わりの季節からなお飛翔しようとする意志ある動きを感じます。《巣箱やや日へ傾きし病かな》は、巣箱が日へ傾く写生の確かさがいい。病中の身の感覚と響き合います。巣箱は「生」の象徴でありながら、傾くというわずかな変化に衰微の実感が滲みます。末尾の《さえづりや本棚に置く常備薬》は、静かな室内と外の声の対照。春の生命感の中に生の歓びと脆さが共存する時間を、さえずりが包み込むようです。三句とも、日常の一瞬から深い象徴を引き出す佳句です。「死の気配」や「時の傾き」「生命の翳り」といった感覚が静かな余韻を残します。明暗が巧みに配膳されているのが魅力です〉と評価。 - 総合誌「俳句四季」(東京四季出版)11月号「四季吟詠」
・二ノ宮一雄選「佳作」〈定年後ホコリまみれの登山靴 奥野元喜〉
・森清堯選「佳作」〈耶蘇地蔵ほたるぶくろの薄あかり 山本うらら〉
・秋尾敏選「佳作」〈半夏生チタンの鍋の肉の焦げ 松橋晴〉
・秋尾敏選「佳作」〈土用入りカレーうどんの汁はねる 森山洋之助〉 - 総合誌「俳句界」(文學の森)11月号「投稿欄」
・古賀雪江選「特選」〈削られし山の半分大西日 松本美智子〉=〈埼玉県西部、秩父と横瀬町の境にある武甲山は、北側斜面には石灰岩が分布していて、セメントの材料として長い間、採掘が進んだ。日本武尊が戦勝祈願をしたと由来の山の現状に複雑な思いがする。そのような山は他所にも多く、斜面が西日に曝されている様子は痛ましくも見える〉と選評。 - 新潟日報9月8日「読者文芸」
・中原道夫選〈黄色とは知らずに切りし西瓜かな 鈴木正芳〉 - 読売新聞9月15日「読売俳壇」
・小澤實選〈頭に巻き濡れタオルなり墓洗ふ 髙橋郁代〉 - 新潟日報9月29日「読者文芸」
・中原道夫選〈仲裁はせずに秋刀魚を焼きにけり 鈴木正芳〉 - 朝日新聞10月19日「朝日俳壇」
・大串章選〈柿が好き横顔が好き子規が好き 鈴木正芳〉 - 読売新聞10月21日「読売俳壇」
・正木ゆう子選〈休職を決める柘榴の裂け具合 谷村康志〉 - 毎日新聞10月21日「毎日俳壇」
・小川軽舟選〈消灯の前の一服夜業果つ 谷村康志〉 - 日本経済新聞10月25日「俳壇」
・横澤放川選〈綿菓子もお面も値上げ秋祭 谷村康志〉 - 読売新聞10月27日「読売俳壇」
・高野ムツオ選〈介護士に母を任せて晩稲刈 谷村康志〉 - 東京新聞11月2日「東京俳壇」
・石田郷子選〈赤い羽根つけて今日より正社員 谷村康志〉 - 総合誌「俳句界」(文學の森)11月号の特集「俳人たちの“横顔”~別側面の魅力」において「加藤楸邨の横顔」に関して田辺みのるが執筆。まず代表句として「木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ」「寒卵どの曲線もかへりくる」「おぼろ夜のかたまりとしてものおもふ」の3句を挙げ、〈代表句を真実感合の視点から選んだ。真実感合は楸邨の作句理念である。主客浸透により主体と客体を一体として把握しようとする〉。その上で田辺は、〈楸邨の別側面として音楽の句を挙げたい。ここで言う音楽とは純粋な作品としての音楽である。比較的有名なショパンの句のほかにバッハやチャイコフスキーなどがあるが、楸邨と音楽の出会いはシベリウスであった。「火のカンナ火のシベリウス断続す」実際に音楽を聴いているのではなく、カンナを見ながら、頭の中で音楽が鳴っているのである。目の前のカンナに火を思い描き、その火はシベリウスの音楽を奏でる。主客浸透の対象は一つが限界であろうが、この句ではカンナとシベリウスの両方であり、それゆえに断続する。真実感合の瞬間は同時には訪れないが、完全には途切れず交互に現れる。音楽は聴覚だけなので、一般に俳句の多くは季語との取り合わせの句となる。しかし楸邨は音楽にも自らを浸透させる。音楽に対しても楸邨の作句態度は変わらなかった〉と叙述。
- 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)11月号の「田島ハルの妄想俳画」(田島ハル氏は漫画家、イラストレーター)が《桃冷ゆる刻を待ちたる姉妹 齋藤朝比古》を取り上げ、楽しいイラストに添えて、〈旬を迎えた桃は至福の味。とろとろの濃厚な果肉が口の中いっぱいに広がり、火照った身体を目覚めさせてくれる。桃は常温で保存し、食べる二~三時間前に冷蔵庫に入れて少し冷やすのが桃本来の甘みを引き立たせるベストな方法だそうだ。空腹なら尚のこと、僅かな時間でも待っている間は永遠に感じる。カップラーメンを待つ三分間も然り。「おあずけ」をされた犬のように目を輝かせながらお利口に待っている姉妹の姿が目に浮かぶ〉と鑑賞。句は「俳句」10月号より。