2025年9月
ほむら通信は俳句界における炎環人の活躍をご紹介するコーナーです。
炎環の軸
- 結社誌「百鳥」(大串章主宰)9月号の巻頭「季節の秀句」(編集部 抽)が掲げる3句のひとつに、《かろき子は月にあづけむ肩車 石寒太》を採録しています。
炎環の炎
- 専門誌「WEP俳句通信」147号(ウエップ)に宮本佳世乃が「帆のやうに」と題して、〈確と折るナースキャップや入学式〉〈帆のやうに畳みしシーツ紫木蓮〉〈長鑷子短鑷子鳥雲に入る〉〈検脈の六〇秒や麦の秋〉〈白南風や浮腫し足に触るるゆび〉〈遠雷や此方電動車椅子〉〈餅伸びて国家試験がすぐそこに〉〈卒業に呼ばるるこゑを私す〉など24句を発表。
- 総合誌「俳句四季」(東京四季出版)9月号「四季吟詠」
・佐藤文子選「特選」〈青空におのれつらぬく立葵 本田巖〉=〈立葵。花の丈は二、三メートルにもなり、下の方から咲く。この句は自己主張の強い句で最後の花が咲くまで夢を持ち続けるとのべている〉と選評。
・山田佳乃選「佳作」〈青麦や子は叱られて育ちゆく 本田巖〉
・鈴鹿呂仁選「佳作」〈沖縄に基地ある平和夾竹桃 本田巖〉
・行方克巳選「佳作」〈ハンモック大統領の休暇かな 奥野元喜〉 - 朝日新聞7月3日文化面「長嶋さん 昭和重ねて 悼む句歌」が〈「ミスタープロ野球」と呼ばれた長嶋茂雄さんが、6月3日に89歳で亡くなって1カ月。朝日俳壇・朝日歌壇には追悼句・追悼歌が続々と寄せられている。その数は400作品を超えた〉と記し、その作品の一部として〈六月や3の形の白き雲 鈴木正芳〉〈ミスター忌野球人生一筋に 荒井久雄〉を紹介。
- 朝日新聞7月27日「朝日俳壇」
・小林貴子選〈もう一度父に着せたきアロハシャツ 鈴木正芳〉=〈父は生前、アロハシャツがよく似合っていたのであろう〉と選評。 - 新潟日報7月28日「日報読者文芸」
・中原道夫選〈瀧の上に尽きぬ在庫のありにけり 鈴木正芳〉=〈すぐに後藤夜半の〈滝の上に水現れて落ちにけり〉を想起、パスティーシュ(剽窃とも異なり新たな創作)を目指したか?滝の上には水の在庫が沢山あると。近々棚卸しもあるかも〉と選評。 - 朝日新聞8月10日「朝日俳壇」
・長谷川櫂選〈合宿の西瓜三十二等分 小澤弘一〉 - 東京新聞「東京俳壇」
・石田郷子選〈強面の父に隙ある昼寝かな 谷村康志〉 - 読売新聞8月18日「読売俳壇」
・小澤實選「一席」〈キャンプファイヤー火の神役の低き声 髙橋郁代〉=〈キャンプファイヤーの火の神役は、たいまつを持って近づき、着火のつとめを果たし、人間にとっての火の大切さなどを説くのか。ただ燃やすだけでないのがいい〉と選評。 - 産経新聞8月21日「産経俳壇」
・宮坂静生選〈草干して熊出没の話など 谷村康志〉 - 朝日新聞8月31日「朝日俳壇」
・長谷川櫂選〈茄子を焼くまだ新妻と呼ばれゐて 鈴木正芳〉 - 東京新聞8月31日「東京俳壇」
・石田郷子選〈婿殿もしばし大の字夏座敷 谷村康志〉 - 毎日新聞9月8日「毎日俳壇」
・西村和子選「一席」〈立山の絵をリビングに避暑気分 谷村康志〉=〈写真ではなく絵である点に、作者のセンスがしのばれる。毎朝、窓から立山を眺めるように涼をもらっているのだろう〉と選評。 - 日本経済新聞9月13日「俳壇」
・神野紗希選〈風通し良き交番の麦茶かな 谷村康志〉 - 総合誌「俳壇」(本阿弥書店)9月号の特集「鈴木真砂女の世界」における真砂女の一句鑑賞に谷村鯛夢が寄稿、「生涯を恋にかけたる桜かな」の一句を選び、〈一九八〇年代、「婦人画報」の編集部にいた私は「打ち合せ」と称して、しょっちゅう「卯波」に出かけておりました。まだ女性俳人に「女流」という「女ながらに」の冠が付けられていた時代でしたが、真砂女さんはすでにそんな「世間の枠」を超えたスター俳人“恋愛俳句の巨匠”であり、一方で銀座の路地の酒亭のバリバリの現役女将でもありました。八十代になっていたとはいえ、「女」としての現役感もたっぷりであったように思います。何度か取材させていただいた折に、例えば〈桜の話〉でも、何とはなしに、ふと、例の「よく知られた男性との話」になるわけですが、その夢での逢瀬の濃厚なリアルさなど、当時三十代の若造の私が対応できるようなレベルではありませんでした。掲句のように、この上五で「恋」を詠み切れる、のは彼女のみ、ですかねえ〉と鑑賞。
- 総合誌「俳句界」(文學の森)9月号の特集「文語・口語の思考」の中で、「口語の思考」について田島健一が執筆し、「〈私〉自身を喜ばせる」と題して、〈「口語で俳句を書く」と言う場合の格助詞「で」は手段・方法を表し、「ことば」という象徴界(言語や社会のルール)では、〈私〉がどのような主体(理想自我)として俳句を書くかを、意識的に選ぶことができるのです。一方でそのような「意識的な選択」が不可能な領域が俳句にはあります。フロイトによる「無意識」の発見は、〈私〉が意識や理性の中心ではなく、「無意識」の影響で常に中心からズラされていること(脱中心化)を明らかにしました。「口語で俳句を書く」という場合、目的格の格助詞「を」によって、あたかも「書く」ことに先駆けて、すでに書くべき「俳句」が明らかであるように錯覚しがちですが、脱中心化した主体によって、〈私〉という幻想は否定され、残された「ことば」の構造のみが、ことばや形式で捉えきれない現実的な〈過剰〉に立ち向かうこととなります。この〈過剰〉は事後的に〈私〉という幻想を生み出し、俳句という〈大文字の他者〉との間に、新しい関係を打ち立てます。〈私〉にとっての俳句は、すでに隠された何かを「発見」するのではなく、常に、何度でも、新しい〈過剰〉を「発明」します。そうして「発明」された〈過剰〉によって、〈私〉は〈私〉自身を喜ばせるのです〉と叙述。
- 総合誌「俳句」(角川文化振興財団)9月号の実作特集「躍動する動詞」の中で、「季語と動詞の関連性」ことに「動詞が持つ季節感」というテーマについて田島健一が寄稿、「潜在的は〈出来事〉としての季語」と題して、〈例えば、公園の遊具を意味する一般用語としての「ぶらんこ」と、季語としての「ぶらんこ」との間には不可視の亀裂が横たわっているのです。一般用語から季語を切り出すその亀裂こそが、季語を内側から条件づける潜在的な〈出来事〉として、季語を季語として確立しているのです。そのような亀裂はさまざまな理由で生成されると考えられますが、そうした機能を持つものの一つが「動詞」です。たとえば、「山笑う」という季語があります。山は静的な自然物ですが、「笑う」という動詞が付与されることで、その存在様式に亀裂が生じます。その亀裂は、あたかも最初から抱え込まれていたかのように〈感覚的なもの〉として受け止められます。その〈感覚的なもの〉に与えられた名前こそが「季節感」と呼ばれるものではないでしょうか〉と叙述。
- 総合誌「俳句界」(文學の森)9月号の「全国の秀句コレクション」が、多くの受贈誌の中から同誌編集部の選んだ14句(1誌1句)の一つとして、「炎環」8月号より《みづいろのハンカチ死後に使ひたす 百瀬一兎》を採録。
- 結社誌「澤」(小澤實主宰)8月号の「窓 俳書を読む」(信太蓬氏)が折島光江句集『助手席の犬』を取り上げ、《青き踏む鞄に雲の図鑑かな》《手の蟬を鳴かせてゐたる男かな》《分けあひて読む朝刊や神無月》の3句を引いて、〈自らの暮らし、実感、言葉から生まれる純粋な日常詠が並ぶ。二句目の中七の意外性に目がとまった。落蟬を拾って掌にのせ、つついてでもいるのだろうか。この世にしがみつく小さな命と、消えつつあるその命しか見えなくなっている男がいる。三句目、紙の新聞のよろしさと夫婦愛を描き出す上五中七のうまさ。ばらして、交換して、隅々まで朝刊を読む姿は長く連れ添ってきた夫婦だろうか。新聞の「紙」と「神」もひそかに響いているようだ〉と鑑賞。
- 結社誌「銀化」(中原道夫主宰)9月号の「現代俳句月評」(大西主計氏)が《どのつらをさげてつらつら椿かな 市ノ瀬遙》を取り上げ、〈ゲーム性を感じた。すぐわかるのは「つら」と「つらつら」の言葉遊び、「つら」「つらつら」「椿」という「つ」の連続が生むリズムだ。「つらつら」は「念を入れて物事を考えたり見たりするさま。よくよく」の意味だそうだから、「どの面をさげてよくよく椿なんぞを見ている(詠んでいる)ことだ」という意味になろうか。「どのつら」「つらつら」と自身を揶揄している。音のつながりによるリズムが揶揄を際立たせるとともに、うまくコーティングして心地良いものにしている。さらに「つらつら」は、油で光っている椿の葉の表面の手触りさえ表していないだろうか。このゲーム性(遊び)と技が、それに留まらず、肌寒さが残る春先の、そして作者の主観の、ちょっとした(かつ深い)苦々しさを現すことに素晴らしく寄与しているところが、掲句の、そして俳句というものの恐ろしさだ〉と鑑賞。