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炎環の俳句

炎環四賞 第二十九回「炎環評論賞」受賞作

「楸邨の季語『柘榴』『柿』――皆川弓彦追悼句を中心とした考察」田辺 みのる

はじめに

本考察の直接の動機はこの一句にある。一見すると「柘榴」「柿」「その他」は無造作に並列されているようにも見える。「その他」と同等にすら見える季語の「柘榴」と「柿」に楸邨はいかなる思いを込めたのか。それを知る方法として、季語の柘榴と柿それぞれの句を年代順に読む。

楸邨は季語の歴史的伝統的情趣に凭れて作句することはない。これは子規の写生に通じる。子規は月並み俳句の打破のために写生を唱えた。これは歴史的伝統的情趣を排して、まずは対象をよく見て新たな側面を発見し、独自の新しさによって季語を刷新することになる。それは芭蕉が伝統的な蛙の声を詠まず、飛びこむ水の音で表現したことにも通じる。楸邨もまた伝統的情趣の強い季語表現は避け、自らの体感に基づいた思いを詠む。それを積み重ねることで伝統とは別の楸邨だけの本意を形成してゆく。楸邨は季語に自らの思いを滲透させる。一句に込めた思いが強いほど、次にその季語を詠む際に、季語に込めた思いを踏襲する。作句を重ねるたびに季語に楸邨の人格が宿る。これは楸邨にとっての作句が、生きること、人生と同義であるからだ。

季語は楸邨にとって便利な道具ではない。単なる道具であれば、うまく使いこなして様々な傾向の句を作ることができるかもしれない。しかし楸邨は、一度季語に強い思いを込めてしまえば、それを無視することができない。その季語に込めた思いに囚われ、ある季語は克服すべき課題となり、ある季語は自分を責め続ける呪縛となる。そのすべてに生涯をかけて向き合った俳人であった。一つの季語の句を年代順に読むことは、楸邨の生涯を垣間見ることとなる。

動機となった句の語順は「柘榴柿」であるが、柿の句は戦前からあるが柘榴はこの句が最初である。まずは柿の考察から入り、過去の柿の句からこの「柘榴柿」の句に辿り着き、この句を出発点とした柘榴の句のその後を概観したい。よって考察の順は柿から柘榴へと進める。だがその前に、次の章でこの句の背景を確認しておきたい。

なお掲出する句は所収の句集名、誌名と特定できる範囲で作句年を入れた。

一、皆川弓彦と茂木楚秋の死

楸邨が粕壁中学の教職を辞し、東京文理科大学(現:筑波大学)国文科へ入学したのが昭和十二年春。夏には日中全面戦争へと突入していく。大学では能勢朝次に指導を受け、そこで共に指導を受けた学友に茂木楚秋、皆川弓彦、小西甚一、峯村文人がいる。楸邨同様、教職を辞して入学した峯村ですら楸邨より八歳年下であり、楚秋もおそらく八歳年下、小西は十歳年下、弓彦(生年不詳)も小西と同じくらいではなかろうか。楚秋と弓彦は楸邨主宰誌「寒雷」に創刊時から参加することになる。

弓彦は終戦の十日後に南方の野戦病院にて戦病死するが、その知らせを楸邨が知るのは一年後である。それは北海道を旅行中のことであった。小樽に赴任した峯村文人は出征、そして戦後、小樽へ復員していた。その峯村を訪ねている。『野哭』に「北海紀行」があるが、句の前書を辿ると、昭和二十一年八月一日に出立し青函連絡船で北海道に渡り函館へ、小樽の峯村を訪ねた後、札幌、釧路、阿寒、旭川、稚内、宗谷を経て函館に戻ったのが同月十七日。その函館の句の七句目の前書に「函館にて皆川弓彦の死を知る」とあり、八句目の前書に「(楚秋重態)」とある。弓彦の死の知らせは衝撃的であったであろうが、楚秋も程なくして亡くなった。弓彦が亡くなったちょうど一年後、同月同日の八月二十五日のことであった。「全句集」の年譜には「(弓彦の)遺骨を仮寓に迎えた」とある。楸邨は空襲で自宅を焼失していたので仮の住まいである。そこで遺骨を受け取った(その後、弓彦の母が疎開先から上京し遺骨を受け取るが、落胆し、間もなく亡くなったという)。楸邨の遺骨受け取りが昭和二十一年十月七日、翌日八日が冒頭掲出の「柘榴柿」の句である。他の句の前書に同じ日付のものがある。それが「十月八日浅川にて故人、鎌原幹・鎌倉鶴丘・皆川弓彦・館野喜久男・茂木楚秋・松岡猛夫・金田和子の追悼会(遠く安東次男来り泊)」となっている。

冒頭掲出句を改めて記す。前書に「弓彦の霊を迎ふ 二句」とある。二句とも記す。

全集にはこの句の「注」として、手帖にある未発表句を紹介している。ここでも柿が登場する。

この句を発表しなかった理由はわからないが、英霊の遺骨を受け取るのに柿を持ったままというのが些か不謹慎という世間体があったかどうか。しかし楸邨のこの句への思い入れは強く三十年後に発表する。「寒雷」昭和五十年十一月号に一字の変更もなく掲載されている。遺骨を迎えた翌日、知友が集まり追悼会となった。その知友の中に沢木欣一がいる。沢木の句は次の二句。

欣一の別の句の前書に生前の弓彦との交遊を示したものがある。「北陸紀行 加藤楸邨氏に伴はれ一週間ほどの小旅行をする。佐渡行きに皆川弓彦、峯村文人両氏も加はる」(昭和十七年)

沢木欣一の句は柿と林檎である。果物が何種類か用意されていたのであろう。その何種類かの果物の中から、楸邨はたまたま柘榴と柿を選んだというわけでもなかろう。楸邨が初めて詠んだ柘榴の句がこの弓彦の遺骨の句なのである。そして柿は戦前から繰り返し詠んでいた季語だ。その最初の柿の句は楚秋の句であった。楸邨は楚秋への思いを柿に込め、弓彦への思いを柘榴に込めた。まずは柿から見ていこう。

二、柿

古くより庭先に柿の木を育てる家は多く、日本人にとってなじみの深い身近な果物である。生活に密着した喜怒哀楽を様々に読み込めそうな季語であるが、楸邨の句には屈託がにじむ。楸邨の第一句集『寒雷』は古利根抄、愛林抄、都塵抄からなるが、古利根抄、愛林抄が秋櫻子の影響下にあるのに対して、都塵抄に至って独自の世界を確立する。楸邨が初めて柿を詠むのはこの都塵抄においてである。都塵抄の二句。

一句目の一緒に柿を食べる「かなしき横顔」は誰のことか。二句目の「誰も」は三人以上であろうか。誰もが黙り込んでいる。この二句と同じ時期に詠まれたと思われる句が『穂高』にある。楸邨が教職に就く直前に第二句集『颱風眼』を刊行、その年の末に『穂高』を出している。この『穂高』は楸邨自身が序において『寒雷』と『颱風眼』の「裏句集」と呼び、『寒雷』『颱風眼』と同時期である。その『穂高』の柿の句。

この句は「戦ふ友」の題の十七句の三句目。一句目は「楚秋征途」と前書がある。おそらく一緒に柿を食べたのは楚秋と彼を送る楸邨を含めた仲間たちであろう。次に「戦ふ友」の一句目と二句目を記す。

作句の昭和十三年は楸邨が入学して二年目。楚秋と同じ「大学生」である。『颱風眼』のある一句の前書に「木曾紀行 同行石田波郷・茂木楚秋」とあり、親交浅からぬことがわかる。二十八年後、木曾を旅した楸邨の詠んだ句の前書に「若き頃、波郷・楚秋と辿りし」と追想している。茂木楚秋(本名、秀一郎)は大正二年生まれ。出征時は二十四、五歳あたりであろうか。寒雷創刊号(昭和十五年十月)に「茂木楚秋戦場にあり報至る」と前書した楸邨の句が掲載されている。それが「戦ふ友」の八句目(前書は句集では「楚秋より便あり」と簡素になっている)である。出征から二年近くが経つ。次の句。

十一句目、前書「友還る」は楚秋のことであろう。向日葵の季節に便りがあり、秋に生還したようだ。

「戦ふ友」十七句の最後は前書「楚秋病臥」の句で終わる。

戦地で病に倒れ日本に送還された。楚秋の句を記す。

楚秋の青春は戦場と病臥にあった。昭和十九年啓蟄の頃に結婚。楸邨の自宅が夜間の空襲で焼失する日、楚秋は上州で楸邨と別れている。この頃は健康を取り戻していたようだが、終戦の翌年、昭和二十一年、三十二、三歳の若さで病没する。

楸邨の最初の柿の句は、戦地へ征く楚秋との訣れの三句であった。仲間と無言で食べた冷たい柿。殊に柿を食べる楚秋の横顔が忘れられないものとなった。楸邨は二十七年後、同じ横顔を詠んでいる。

楸邨は三十六年後にも同じ横顔を詠んでいる。

昭和四十九年は正確に言えば出征の日の横顔から三十六年だが、楚秋没後二十八年である。楸邨にとって柿は楚秋の出征と切り離せないものであった。

その後は第二句集『颱風眼』に二句。

生還者を迎える柿の句は残念ながらこの一句しかない。この頃の楸邨の句に英霊、傷兵の句は多い。柿に今生の別れを詠まざるを得ない。

楸邨の粕壁中学時代の教え子も多くが出征した。その一人、厚見峻は真珠湾攻撃に参加し戦死。楸邨は一周忌に生家を訪れている。題に「故厚見少尉」とあるのは、戦死による二階級特進による。

母に背負われた幼き日に、柿を欲しがって泣いた話を楸邨は直接、教え子の母から聞いたのであろう。「柿の朱に還」るという表現には鎮魂の祈りがある。楸邨の柿は、出征の友との訣れに加え、教え子の戦死と直面し追悼の色が濃くなる。

楸邨は季語に込めた思いが強すぎると、しばらくの間その季語が使えなくなることがある。『雪後の天』に続く句集『火の記憶』には柿の句は一句もなく、戦後の『野哭』を待つこととなる。

次の句は戦後すぐの句。「生きのこりゐて」は、死んでいった人を意識している。

その翌年に五句。楸邨の多くの場合、句集掲載順は作句順と考えてよい。一句目の「柿の朱」に眠る表現は教え子の死に際して詠んだ鎮魂の祈りと同じである。二句目は楚秋追悼句。三句目は亡き楚秋を偲んでいるのか。そして四句目が冒頭に掲出した弓彦の遺骨の句である。

楚秋との出征の訣れに始まった楸邨の柿の句であったが、教え子と楚秋の死により柿は追悼の季語として楸邨の中に定着した。

では、なぜ弓彦追悼句に突然、柘榴が出てくるのか。追悼の思いを何度も込めてきた柿だけでなく、今までに一度も詠んだことのない柘榴がなぜ必要だったのか。この問題に入る前に柿の句のその後について概観しておきたい。

楚秋と弓彦の死への思いを柿に込めたために、楸邨にとって柿は重たい季語になってしまった。翌年の昭和二十二年は一句(旅愁を詠んだもののみで句集未所収)、翌々年は三句(『起伏』)あるが、その後三年間は一句もない。三年の沈黙を経て詠まれた句は、句集『山脈』の最後を飾る句である。

楚秋の出征から始まった楸邨の柿は哀悼の色を濃くしたが、終戦から七年が経ち、戦争の呪縛から離れて詠もうとしているかのようにこの句は感じられる。ここまでの句集所収の柿の句は二十句、生涯では八十七句あるが、『山脈』の次の句集『まぼろしの鹿』は二十四句と増え、それに続く『吹越』に十九句と続く。楸邨は自由に柿を詠み始める。

しかしその中でも亡き人への哀悼の句であることがわかる句もいくつかある。次の一句目の昭和四十年は戦後二十年という区切りの年であり、すでに掲出した楚秋への追悼句を詠んだ年でもある。二句目は一歳七カ月で亡くなった次女明子への哀悼句であろう。三、四句目は波郷への追悼句である。

以上のような哀悼句とわかる句以外は自由に読んで解釈すればよいのだが、楸邨の場合、それゆえに難解な句が多い。戦前に楸邨は難解と言われたが、今では楸邨の戦前の句を難解と思う人は少ないであろう。だが戦後何十年も経って作られた句に、季語に戦前に込めた楸邨の思い、言わば楸邨の本意を知っていなければ読み解きにくい句が出てきてしまうのである。もちろん俳句は独立した一句として自由に読んでよいのだが、楸邨の柿の句を年代順に読んでみると、連作のような広がりが生まれる。しかしそれは見方を変えれば、過去に縛られた狭い読みとも言えるかもしれない。例として五句挙げる。

一句目、仰ぐ柿に思い出すのは、真珠湾に散った教え子の母が守る柿の木ではないか。そう思うとほかの解釈はできなくなる。

二句目の「我」に過ぎる「遠き時間」がいかなるものかは季語の柿から類推するほかはないのだが、それは楸邨の個人的な時間だ。

同じように三句目の「わが闇」も楸邨の個人的な心理であり、柿という季語の伝統的情趣からは離れたものである。

四句目の二つの顔は誰なのか。読む人によっては離れて暮らす父母であるかもしれず、また別の人はトランプとプーチンを想像するかもしれない。しかしここまで順に読み進めてくると、やはり楚秋と弓彦の無念の顔となってしまう。

最後の五句目は晩年の句。楸邨にとっての柿は伝統的な本意では表せないこともさることながら、筆者がたびたび使用した哀悼という単純な言葉でも表しきれるものではないであろう。柿という季語が、楸邨の個人的な経験の積み重ねによる複雑な陰影を帯びてくるのである。

三、弓彦と楸邨

第一章で述べたように、楸邨は東京文理科大学国文科へ入学(昭和十二年春)、能勢朝次に指導を共に受けた学友に茂木楚秋、皆川弓彦、小西甚一、峯村文人がいる。皆、八歳以上年下であるが、皆と同じように学生服を着て通学した。峯村は俳句ではなく短歌を雑誌に出していたようだ。小西は「寒雷」に投句し誌上で楸邨が評を述べている。峯村も小西もその後、国文学者として大成した。楚秋と弓彦は「寒雷」の創刊時から参加、短い生涯であったが同人として活躍した。

楸邨が大学を卒業し、府立八中(現:都立小山台高等学校)に国語教諭として赴任したのが昭和十五年四月。弓彦はその八中に同じ国語教諭として一年前から赴任している。つまりかつての学友は職場の同僚となったのである。楸邨が赴任したその年の十月に楸邨主宰誌「寒雷」が発刊。弓彦は本名の皆川一郎の名で「寒雷」の創刊号から投句。翌年、昭和十六年六月号より暖響(同人欄)に皆川一郎、改め弓彦として登場する。

「寒雷」には毎号「寒雷反芻」という会員の句に対する楸邨の鑑賞文が載る。創刊号で楸邨は弓彦(一郎)の句を取り上げた。

「瞶る」は「みる」と読むが、通常この字は使わない。字の意味からすれば、見えがたいものを必死に見ようと目を凝らすということか。これは楸邨の影響である。楸邨の第一句集『寒雷』の発刊が前年の三月であり、弓彦は『寒雷』を読み込み、楸邨に心酔してこの一句をなしたのであろう。楸邨の「瞶」を使った句は『寒雷』に二句ある。

出生兵は冬木を見ようとしているのではない。見ようとしているのはここにはいない残しゆく大切な人か、待ち受ける運命か。そして寒雷の季語の三句の内の一句。

真闇に犇とようとしたのは楸邨自身の心の内ではなかろうか。『寒雷』の後記で次のように述べている。「自分の外に美の世界を築くことを止めて、自分の中に、自分と共なる姿の俳句を見ようとした。」そして「(略)あらゆる隠れたるものの本質へ向かはうと思つてゐる。」とある。これは俳句という形式の限界に挑む極めて困難な道ではないだろうか。「隠れたるものの本質」は目には見えないのだから。「寒雷」に参集した者の中にそこまで同調しえたものが何人いたであろうか。弓彦の句はその明確な賛同の一句となっている。

その弓彦句への選評の全文を引用する。

「炎天に立った作者の若い焦燥は、何かをみつめ、何かに集中せずには、居られない位激しいのであるが雲一つなく白々と灼けた空には、ただ一つ青い松の葉が棘々と目に入るのみである。――しかも、その松の葉さえ、漲る光の中にただ青く灼けて見える。作者の焦燥感は、「松葉は灼け」と言い切ったあとに、ぎらぎらする強さで揺曳する。

この句の表現は、一つ一つの言葉が、何かいらだたしい感じを帯びていることで、「瞶るものを失ひし空」というようなとかく観念的に考えられた結果とも見える叙述的表現をしていても、それを、こういう感情が裏からしっかりと支えているのである。この作者はある時、ある境地で高揚した感情を以て詞を支えているのであるが、これは若さの力である。やがて鍛えこまれて、人間としての体験の重さ心境の重さで支えるところにゆかねばならぬ。」

以上が楸邨の評である。創刊号でこの句を取り上げることで、「寒雷」が進むべき方向を指し示している。楸邨が「寒雷」という季語に、句集に、主宰誌の名に込めたものが「隠れたるものの本質」の表出であると弓彦は看破していた。少なくとも楸邨はそう確信したであろう。この時すでに楸邨自身も「瞶」という字自体が俳句には観念的すぎることに気づいていたのではないか。弓彦の句によって楸邨は自身の句を客観的に捉えなおし、弓彦の若さを危ぶみつつ自戒としている。かつての学友であり、職場の同僚となったこの青年は、かつて秋櫻子がホトトギスを離反する際に楸邨が支えたように、秋櫻子とは別の道に踏み出そうとする楸邨の最大の理解者となる予感に満ちている。

その弓彦の死の報が入り、親族ではなく楸邨が直接、遺骨を受け取ることとなる。旅先で突然受けた戦死報は終戦から一年後であり、突然で信じがたいものであったろう。遺骨を手に受けそれを現実として受け取らざるをえなかった悲しみはいかばかりであっただろう。

柿は第二章で述べたように楸邨においては死者を悼む季語である。しかしそれは、亡き人の在りし日を懐かしむ追想でもある。その代表が楚秋の出征の日の横顔であろう。目の前にある弓彦の遺骨の衝撃を詠むには柿だけでは足りなかった。

ではなぜ柘榴なのか。それはわからないが、楸邨がかつて一度も詠んだことのないこの季語は、その音の響き、色、形、すべてが遺骨と結びついて記憶されたはずだ。楸邨が俳句を詠むということはそういうことであろう。

四、柘榴

楸邨の柘榴の句は多くはない。句集にあるもので生涯十六句ほどである。柿の章で見たように楚秋への追悼句は後年何句かある。楚秋と弓彦は忌日が同じなので、楚秋を追悼すれば同時に弓彦のことも思い出しているはずであるが、弓彦については触れない。触れられない。それほど楸邨にとって大きな傷痕であった。

冒頭掲出句の作句年、つまり弓彦の遺骨が還った翌年に柘榴 の句が一句、二年後に一句ある。

二句目は弓彦の遺骨と切り離して読むと難解な句である。やはり「過ぎし日」は遺骨帰還から後の日々であろう。楸邨の心は癒えない。この後、柘榴の句を詠むのは十二年の沈黙後(昭和三十五年)である。その後も十年に一句のペースだが最晩年に少し増える。

「わが秘匿界」「心中」「脳中」は楸邨の心の内である。心中の柘榴は裂けず、割れず、全き柘榴である。柘榴は生涯消えぬ傷となった。

最晩年は明るく詠もうとする姿勢も見える。それに伴って句数も増える。もともと果物としての柘榴は嫌いなわけではない。《柘榴むしりき波郷も我も金なき日(日本近代文学館収蔵作品)》という句もある。しかし柘榴を食べたときの喜びを句にすることは楸邨にはできない。

「ゑくぼ」の主は楸邨ではない。楸邨が誰か小さな子に分けてあげたのだろう。柘榴を受け取った笑顔を見ながら、かつて遺骨を受け取った自分と比べてしまう。

柘榴の味は遥かな記憶と結びついている。次の句は亡くなる三年前の句。

ようやく柘榴を見てなごむようになる。それは二度見た二度目のことであり、いきなり目に入ってしまえばその途端、心に痛みを覚える。

柿は幾人かの死を経て楸邨の中で追悼の季語として昇華した。亡き人の在りし日を偲ぶ季語である。しかし柘榴は最初の一句である遺骨から逃れられない。目の前に骨となって還った現実が柘榴に刻印されてしまった。楸邨の受けた傷は完全に癒えることはなかった。

六、終わりに

弓彦は終戦の十日後に南方のハルマヘラ島の野戦病院にて戦病死する。峯村文人が「寒雷」に寄せた文章では「迎えの船を待ちきれず餓死した」とある。川崎展宏の文章では「栄養失調による衰弱の果てであった」とある。実は、弓彦が八中の教諭であったとき生徒として在籍していた俳人に川崎展宏がいる。展宏が日米開戦の十二月八日の弓彦のことを都立小山台高等学校(旧八中)の「創立六十周年記念誌」に「皆川先生のことなど」という題で次のように書いている(一部抜粋)。

「その日の授業は、各先生が、感想を述べることで始まった。それで授業がつぶれた。国語の時間、すらりとした白皙はくせきの皆川先生は、君たちには、これから希望を充分伸ばせる時代が来るだろう、といわれ『うらやましいよ』と一言添えられた。」

生徒であった展宏には、弓彦が言った通り、戦後という新しい時代が到来した。「うらやましいよ」と言った弓彦は自らの運命をどこまで予想していたのであろうか。

楸邨は多くを語らない。寡黙であり、ときに沈黙する。嘆きはいったん胸にしまい、俳句に結晶させ生涯それを引きずる。楸邨にとっては人生と俳句は同一である。

川崎展宏は前出の文章を弓彦の死を思い次のように結んでいる。

「無念であったろう。無念である」

楸邨もまた、誰よりも無念であったに違いない。

(完)

参考文献

受賞のことば

終戦の十日後、弓彦は戦病死した。終戦六十年が経ち教え子の波彦が国会図書館所蔵の「寒雷」から句を拾い集めた。その波彦は亡くなったが、東京府立八中十七回生同期会(弓彦の教え子達)は波彦ノートを活字化することを決め、咲彦が纏めた。咲彦の文に「弓彦先生への何よりもの供養であり波彦の遺志がいかされるのも嬉しい」とある。波彦、咲彦は本名ではない。俳号であろうか。弓彦は生徒から慕われる教師であり、俳句を通しても繋がっていたのであろう。名のある高き峰々ではなくとも、名のない数多の小山もまた楸邨山脈に連なっていた。

終戦の翌年八月、楸邨は旅先で弓彦の戦死の報を受ける。ちょうどその頃、草田男から楸邨への戦争責任の追及がある。傷痕を抱えた楸邨が十月に弓彦の遺骨を受け取り、遺骨の前に沈黙する。草田男の追及に対して言い訳をしなかった楸邨はそのとき、生涯語らぬと決めたことがいくつかあるのではないか。それは今も謎だが、その謎の一つは弓彦だ。弓彦の死後、楸邨は弓彦について語っていない。十七音という少ない情報から読み解くほかはない。だが十七音しかないからこそ伝わるものも、あるのかもしれない。

最後になりましたが、知られざる俳人を紹介できる機会を頂き、主宰と選考委員の方々に心より感謝申し上げます。