ホーム
時評 俳句の海を耕す

時評 俳句の海を耕す③

時代の名前 ー 平成無風再考 ー

炎環誌 2026年3月号より

西川 火尖

 初めて携帯電話を買った二〇〇〇年からの十年は携帯電話進歩の最も華やかな十年だったと思う。カメラやテレビといった今まで携帯電話になかった新機能を各社が競って搭載した。翻って現代はiPhone を中心としたスマートフォンの時代である。実のところiPhone は新機能をいち早く取り込むという先の時代の価値観に全く重きを置いていない。初代iPhone 発表時、カメラやブラウザが評価されたが、どれも既に普及していた機能だった。特徴的な大型タッチ液晶ですら、IBM やシャープの携帯電話への採用が先である。iPhone の革新性は、新機能による新しさではなく、既に普及している機能を画面上に平等に並列してみせ、そのどれもが共通のセオリーで動くという統合性の新しさであり、それが新標準として一気に世界に普及した。iPhone の登場は「新機能追加」から「洗練された統合性」へ携帯電話進歩の価値観を書換えるものだったのだ。

 ここでようやく話は俳句に及ぶ。1990 年代以降さしたる論争や革新的な俳句が生まれなくなった俳壇を「平成無風」と呼ぶようになり、何度も「風を起こそう」といった提言がなされてきたが、現在も依然として「平成無風」の状態にあるとされている。考えてみればそれは当然で、かつての携帯電話がラジオやテレビ、果てはソーラーパネルまで搭載した後、いよいよその大きさの制約から付け加えるものがなくなったように、近現代俳句の論点は定型対自由律の形式論から伝統対前衛といった内容論に至るまで語りつくされているのだ。

 ではしかし、平成以降の俳句は停滞しているのだろうか。私はそうは思わない。平成初期から現在にかけて、携帯電話からiPhone への変化と同様の価値観の大転換が俳句に起きており、その変化は加速している。少なくとも私はそう考えている。

 小川軽舟は『現代俳句の海図』(角川学芸出版、二〇〇八)で、小澤實や岸本尚毅、長谷川櫂といった昭和三〇年代生まれ俳人の特徴を、伝統俳句、前衛俳句といった枠組みに捉われずフラットに俳句の技法を吸収した点に求めている。過去の運動・陣営に捉われず、それぞれの俳句を平等に扱うことで、自らの表現へ洗練統合した最初の世代である。そしてその成果が初めて花開いたのが昭和後期から平成初期にかけてであった。まさにiPhone 的価値観への変化がiPhone に先んじて平成初期の俳句界で起きていたのである。

 次に起きたのが俳句甲子園世代俳人の高性能化である。青木亮人は二〇二二年版の『文藝年鑑』で佐藤文香や安里琉太、岩田奎といった俳句甲子園を経た若手俳人を取り上げ、次のように分析している。「彼らは十代から俳句史上の膨大な表現を吸収し、若くして分厚いリテラシーを身につけた結果、八〇年代に「うまい句」とされた俳人以上に技巧的で多様な表現を駆使しうるようにな」ったと評している。これが「平成無風」の正体、無風とされているにも関わらず俳句が未だに終焉していない理由ではないだろうか。俳句への「新51 俳句の海を耕す機能追加」から「洗練された統合性」を競う方向へ新しさの価値観が転換し、俳句は生きながらえようとしているのだ。

 青木亮人は二〇二一年版の『文藝年鑑』でも執筆を担当しており、そこで「俳句甲子園はゲーム性の高い世界観を有し、価値が点数化され、明快に勝敗がつくため、誰もが納得しうる作品を成立させる技術を尊ぶ俳句観が色濃い。例えば昭和戦後俳句が重んじた「境涯」「人間」といった価値観、つまり作品以前に存在し、点数化が困難な世界像を後ろ楯に句を詠み、鑑賞するという俳句観を完全な遺物として葬ることを決定付けるものであった。」と分析しているが、これは「平成無風」が今後のデファクトスタンダードであることを端的に苛烈に宣言したものではなかっただろうか。もっとも「人間」に拘泥する私としては、受け入れがたい宣言ではあるが、「平成無風」のエネルギーを表した言葉として記憶しておくべきだろう。

 二〇二四年版の『俳壇年鑑』では、神野紗希が筑紫磐井の『戦後俳句史』の一節を引いて、現代俳句の出来事、運動に名前をつける必要を訴えている。神野は東日本大震災や現代の戦禍に向き合う俳句を「シン・社会性俳句」、人間像やヒューマニズムが揺らぐ現代に季語や自然といった人間以外の「オブジェクト」を淡々と詠み人間に過剰な意味を与えないものを「オブジェクト俳句」とし、それぞれ「平成無風」後のムーブメントとして提唱している。しかし結局それらは「社会性俳句」「モノ俳句」のリメイクでしかない。往年の携帯電話が現代の技術で復刻されてもスマートフォンに取って代わることがないように、時代を画する力を有しているとは思えない。それより名前を付けるのであれば「平成無風」にこそ適切な名前を付けるべきではないだろうか。

 昭和三十年世代俳人に始まる、俳句表現財産のフラットな再利用、掛け合わせと統合を平成令和の俳句の特徴としたとき、「循環(リサイクル)」と「参照性」という言葉が浮かび上がってくる。「参照性」とは生駒大祐が提唱する俳句規定の概念で、過去の俳句を参照して引き継ぐことが俳句を俳句たらしめているという考えである。つまり、一見「境涯」や「人間」といった価値観を葬り去ったはずの平成令和の俳句は「参照性」によってその欠落を埋めつつ、俳句単体としては「境涯」「人間」と無関係に存在しうるということである。これをもって「平成無風」は「循環参照性俳句」と定義し直すべきだと考える。そして、適切な名前がついてようやく「平成無風」もとい「循環参照性俳句」の批判も可能になってくるはずである。

 そこで最後に、「循環参照性俳句」がすぐに直面するであろう問題をあげて筆を置こうと思う。過去の俳句表現の吸収学習も、参照性の紐づけもどちらも人間よりもAI の方が優れているのではないか。そのとき、詠みにおいても読みにおいても「境涯」や「人間」といった価値観を俳人が手放してしまっていた場合、俳人はAI と競合関係になってしまうのではないだろうか。その競合関係の中で私たちは何を見出し、何を問われ、あるいは問いかけるのだろうか。

 (本稿は南風2024 年10月号「俳句深耕」への寄稿を再編集・加筆したものです)