ホーム
+PLUS

自覚者達の芸道 08

島 青櫻

〔侘び茶の骨格を作り、利休に伝えた紹鴎は〕「侘びといふ言葉は故人も色々に歌にも詠じけれ共、ちかくは、正直に慎み深くおごらぬさまを侘といふ」(『侘の文』)と書いた。……日本の伝統、少なくとも平安末から鎌倉時代へかけて起きてきた伝統のなかには、もともと過剰・多情を意味したすく・すきを、その外延に於ては、極度にまで狭めながら、その内包を強く豊かなものにするといふ方向がある。心敬法師のすきはもとより連歌であったが、「枯れかじけ寒かれ」といふのが連歌の最高の姿とされてゐるやうに、冷え、さびながらも、また己がすき以外の一切を捨てきりながらも、そこに反って豊かさ、広さを持つといふ方向である。……〔紹鴎や利休の侘び茶は〕食を中心にしてその道具と住をふくめて、「食は飢ゑぬほど、住はもらぬほど」の食住のわび文化を築くかうとするわけである。[注記:〔 〕内は筆者記入]

(唐木順三『千利休』)

 わびる(侘びる・詫びる)の今日の一般的意義は、【①気落ちした様子を外に示す。がっくりする。②困りきる。迷惑がる。③恨みかこつ。悲観して嘆く。④気力を失って沈みこむ。淋しく心細い思いをする。⑤失意の境遇にいる。零落している。⑥(助けてくれるよう)嘆願する。⑦(「詫びる」と書く)(困惑のさまを示して)過失の許しを求める。あやまる。謝罪する。⑧気の毒がる。ふびんがる。⑨閑静な地で生活する。俗事から遠ざかる。⑩…する気力を失う。…しかねて困惑する。(『広辞苑』)】である。紹鴎のいう侘びに通じる意義は見当たらない。鴨長明や吉田兼好といった鎌倉時代の歌人、いわゆる隠遁文芸者は、⑨の意味合いの侘び人、といえる。斯様な生活者の心底にあるのは、当時の仏教(真言密教)の半可通の仏教理解に基づく美的理念、言い直せば、無自覚的芸道者の憧れに起因する美的意向、といってもよい。然して、その侘びは、現実逃避における美的理念であって、心法における理想の美的理念ではない。

〔『花鏡』の完成後に書かれたといふ『遊楽習道風見』の中で世阿弥は〕老枯の美をつくりあげることのむづかしさと共に、その方法を説き、成長完成の美を冬枯の美、銀椀裏の雪として象徴し、それを「色即是空」の境としてゐる。いはば寂々として冷え枯れた世界への登りつめである。ところで彼はここで一転して「空即是色」への却来を説く。「有は見、無は器なり。有を現はす物は無なり。」即ち空を根拠としての色を説くのである。……色から空へ、空から色へであるが、この却来によって、色の世界は一変するであらう。……登りつめたるところにあらはされたさびが却来するところに、さびが様式をもち、山海草木有情無情がさびの色をもって立ちあらはれる。心が無心を、有文が無文を、形が無形を、総じて色が空を根拠としてたちあらはれるであろう。無の芸術、空の様式、すなはち、有や色がそれ自体として固定定着するのではなく、ひとつの象徴として出現するといふ世界こそ中世の性格、すなはちさびの世界である。[注記:〔 〕内は筆者記入]

(唐木順三『千利休』)

 「わびとさびと違ふところは、さびのもつ却来の契機をもたないという点である。色即是空から、空即是色へ転ずる機がわびにはない。いはば有の根拠としての無を持たないのである。……能が高く悟りて俗に還るといふ却来の契機、色即是空から空即是色に転ずる機をもつたのに、何故に茶が対立併存の域を超えることができなかつたのか。わびといふ言葉をさびと違つてつかわざるをえなかつたか。」と唐木は云う。唐木の云わんとするところを言い換えれば、利休のわびは、仏法、すなわち、色即是空∞空即是色の法理に基づく美の理念ではないと唐木は観た、といってもよい。

 仏法、すなわち心法の理法は、色即是空∞空即是色の却来ともいえる往還的な絡み合いの法式からなる。心法の理法、色即是空∞空即是色は、無常即是恒常∞恒常即是無常といった空間性の観点から理解することも可能であり、また、流行即是不易∞不易即是流行といった時間性の観点から理解することも可能、といえる。或は、空間性即是時間性∞時間性即是空間性といった、空間的事柄(有為)と時間的事柄(無為)とが絡み合い相即する理法と観ることも許容する、乾坤の根本的理法、といってもよい。

 利休のいう侘びは、仏法における貧富一緒、或は、有量即是無量、すなわち、less is moreといった矛盾的同一に美的価値をみる美的理念、言い直せば、空間性の観点から理解された心法に基づく美的理念、ともいえる。それは、ジャコメッティの彫刻の如き、余計なものを削ぎ落とした極貧の単純相に無量の豊穣をみる、空間的美的理念、ともいえよう。端的にいえば、空間性の美は、実態性の有量の美、いわば、身体的美、といってもよい。色即是空∞空即是色の仏法の色を空間性の美、すなわち侘びと理解するとき、また、空を時間性の美、すなわち寂びと理解するとき、詫びの美と寂びの美とは、詫び即是寂び∞寂び即是侘びの理法、すなわち心法の基における美、ともいえる。

 利休は、長明や兼好といった無自覚的芸道者の仏法理解、すなわち仏法の無常の理のみを観、恒常の理を観ない半可通の芸道者、それ故に、現実から逃避し、幻夢の境に遊ぶ隠遁者、いわゆる侘び人ではない。利休は、無常即是恒常∞恒常即是無常の理法を覚悟した自覚的芸道者であった。利休は抛筌齋の齋号をもつ居士、在家の禅の修行者であり、彼の心法の会得はそこに由来、とみなければならない。

 利休の茶の湯は、いま・ここの、すなわち時空一如における一期一会の邂逅における命相互の交感に、真の自己形成を遂げんとする者同士の、すなわち事事無碍の一元性の境域における営為、といってもよい。それは、一休のいう、茶の湯の中の仏法の実践であり、また、仏法の中の茶の湯の実践、といってもよい。言い直せば、時空一如の只中における真・善・美の三位一体の世界の創作、ともいえよう。芭蕉の口吻を借りれば、造化に従い、造化に帰ったところの当為、といってもよい。侘びとは、斯様な心法に基づく出来事における空間性の美の理念、といってもよい。つまり、詫びは、いま・ここの、常に途上における空間性の美に他ならない。その美の姿は、今・此の姿であり、永遠に完成することのない、不完全な姿、といえる。言い換えれば、心法の境における身体性の美である侘びは、未完の美、ともいえよう。

 一方、長明や兼好等の無自覚的芸道者の侘びの境域は、現実から遁れ、迷妄が創り出す白日の幻夢、いわば、白昼夢の世界、といえる。睡眠時の深層意識における夢は、無の一物のコギト(cogito)における夢、すなわち分別的自己意識から解放された意識が創り出す真実の夢想であるとするならば、白日の幻夢は、睡眠時の表層意識における夢と同様、有の一物のコギトにおける夢、すなわち自己に執着し閉塞する、無自覚の意識が創り出す妄想、といってもよい。妄想は、心法から外れたところの意識現象、迷妄の虚実の夢想、といえる。

 千春撰「武蔵曲(むさしふり)」に述べた芭蕉の言葉、「月をわび身をわび、拙きをわびて、わぶと答へむとすれど、問ふ人もなし。なほわびわびて、侘ですめ月侘齋がなら茶哥」を引いて、唐木は、「わぶと答へるところのないところでわびることが、芭蕉のわびであつた。〈わびわびる〉こと、わびをもわびること、さういふわびの極北が芭蕉の志向するわびであつたといつてよい。……わびることの不可能なところでなほわびようとするのである。わぶと答へる対象のないところで、ひとり侘びて住むわけである。これはわびの自己否定といはねばならぬ。」、と芭蕉の侘びを解明する。併し乍ら、芭蕉のいう侘びは、自覚的芸道者の積極的な佇まいとしての侘び、と聞かねばならない。「なを放下して栖を去り、腰にただ百銭をたくはへて、柱杖一鉢(しゆぢやういつぱつ)に命を結ぶ。なし得たり風情終に菰をかぶらんとは。」(「栖去の弁」)が究極の佇まい、すなわち、栖を捨て去り、身ひとつの佇まい、そこにはもはや対比すべきものなど、吾身を除いて何もない、極貧の侘び、究極の侘びの営み、と見なければならない。これは、詫びの否定ではなく、詫びの徹底、というべきであろう。言い直せば、芭蕉の侘びの佇まいは、禅仏教にいうところの無一物の美、有為の情がなせる空間性における様相、といってもよい。

 仏法すなわち心法の命題、色即是空∞空即是色にいう色は、空間性の身体に属する命の要素、また、空は、時間性の心体に属する命の要素、とすれば、芭蕉のいう風の詞、風雅・風情・風流・風狂等の風は、まさに時間性の心体に属する要素、といってもよい。言い直せば、風雅・風情・風流・風狂等の風は、造化に帰依・帰命したところの心体的境域を指す詞、と聞いてもよい。しかあらば、侘びは、造化に帰依・帰命した身体的境域、ともいえよう。而して、寂びは、心体性の美、時間性における有情のなせる無相の美、いわゆる幽玄の美、ともいえよう。一方、侘びは、身体性の美、空間性における有情のなせる有相の美、芭蕉がいう撓(しをり)や細み、或は軽みといった美、と見ることもできよう。

 心法の美的理法は、侘び即是寂び∞寂び即是侘び、相反する二つの美が絡み合い相即する方式からなる。いわば、侘びは寂の否定、また同時に、寂びは侘びの否定、といった相矛盾する要素が一つに結ばれ随伴する方式、ともいえる。この場合、侘びと寂びとは、侘びの否定は寂びの肯定、同時に、寂びの否定は侘びの肯定、といった矛盾的自己同一の関係にある、根柢においては一つである美、といってもよい。したがって、唐木のいう「芭蕉のわびは主観的な趣を超えた形而上的なもの」の意は、造化に帰依・帰命したところのわびは、利休の侘び数寄のごとき、主観的な趣味を超えた形而下的なもの、すなわち、心体的な形而上的境域であるさびに随伴する身体的な形而下的境域における美、と解するべきであろう。先にみたごとく、唐木は、利休の侘び数寄の茶の湯を、主観が捉える対立併存の域、すなわち色即是空∞空即是色の心法から外れた偏頗な境域における営為と把握している。直言すれば、この把握は謬見、といってもよい。利休の茶の湯の境域は、既にみてきたように、極貧の佇まい、といった空間性の美、すなわち身体性の美的理念である侘びと、一期一会の邂逅における命の交感による真の自己形成、といった時間性の美、すなわち心体性の美的理念である寂びとを併せ持つ、心法の境域における営為、といってもよい。言い直せば、利休の茶の湯は、色即是空∞空即是色の心法に則した、真・善・美が三位一体をなす境における美的当為に他ならない。いうなれば、心法の只中における詩境の創作、といってもよい。

 長明や兼好といった無自覚的芸道者の遁世の美学は、侘び住まい、すなわち隠遁者としての侘び人の侘びは、仏法、すなわち心法から外れた境域における消極的な姿勢、つまり、逃避における侘び、といえる。いわば、浄土と穢土といった二元性の世界に呻吟し生死する、有の一物の佇まいの様相、といってもよい。一方、利休や芭蕉のごとき自覚的芸道者の侘びは、心法の裡に心身を投じた境域における積極的な姿勢、すなわち却来における侘び、といってもよい。いわば、浄土と穢土とが融通する一元性の世界に彷徨滞在し生死する、無の一物の佇まいの様相、といってもよい。それは、唐木のいうさびの境地に随伴するわびの境地、ともいえる。言い直せば、侘び即是寂び∞寂び即是侘びの心法における侘びであり、有相の法身としての佇まいに他ならない。

 詮ずるに、心法における二様の美、すなわち、有相の法身の美としての侘びと、無相の法身の美としての寂びとは、絡み合い相即する一如の美、といえる。侘びは、佇まいの美、有相の法身の身際が醸しだす美、といってもよい。一方、寂びは、余情の美、有相の法身を包み込む余白・余韻が醸し出す美、ともいえる。日本の文学論、若しくは芸術論における美的理念、いわゆる幽玄とは、端的にいえば、有相の法身の身の回りに看取される気配、乃至雰囲気、いわば無相の法身の顕現、すなわち寂びの美的理念、といってもよい。この場合、有相の法身の佇まいの回りに醸し出される余情としての心情、いわば、風景における幽玄と、更に、斯様な風景を包み込む雰囲気としての心情、いわば、背景における幽玄とが考えられる。風景における幽玄は、ひとつひとつの佇まい、すなわち詫びの総和が回りに醸し出す事事無碍界の気配、いうなれば、有量の命の間、空間性の間が醸し出す心情、といってもよい。一方、背景における幽玄は、一つ一つの佇まいの総和が回りに醸し出す気配を更に包摂する超越的雰囲気、いうなれば、無量の命の間、時間性の間が醸し出す心情、といってもよい。いずれの幽玄も、無相の美、すなわち寂びの顕現、といえる。空間性の間としての風景における幽玄、すなわち二様の寂びは、時間性の間としての背景における幽玄とは、対立併存する様相ではなく、根柢においては一つであるものの二様の美の顕れ、といってもよい。すなわち、風景における幽玄と背景における幽玄とは、二つの景が融通無碍に重畳する一如の景、いわば、光景における幽玄を基にする二様の美の顕れ、ともいえよう。言い直せば、風景の幽玄は事事無碍における幽玄、いわば、余白の美、また、背景の幽玄は理事無碍における幽玄、いわば、余韻の美、ともいえる。而して、心法に基づく芸道は、斯様な無相の美である二様の寂びと、有相の美である侘びとが一如であるところの美的当為の実践、といってもよい。

 利休の茶の湯は侘び茶、或は、利休の草庵の茶室は侘び数寄、と屡々いわれる。侘び茶とは、侘びの茶、質素な茶の湯、と容易に意義を了解できる。しかし、侘び数寄は、どうであろうか。侘び数寄とは、質素な数寄、すぐには了解できない。広辞苑』には、[すき【数奇・数寄】(「好(すき)」の当て字)風流の道、特に茶の湯などを好むこと。下学集「数奇、スキ・辟愛之義也」]、と要領を得ない。風流の道は、今のわれわれの見識からいえば、心法に基づく芸の道、自然に帰依・帰命した創作者の道、と了解することができる。したがって、侘び数寄の草庵茶室は、侘び好みの草庵茶室、と解釈することができる。侘び好みの草庵茶室、いわゆる数寄屋とは、如何なる佇まいを指すのか。数寄屋は、人知の工作を加えない、自然みずから成せる自然風の佇まいの家屋、言い直せば、心法に基づく物事の様相、端的にいえば、当為の実相、つまり仏相の住まい、ともいえよう。有情の美である侘びの佇まいは、質素で質朴な姿勢、ともいえる。侘茶は質素な茶、侘び数寄は素朴な庵、いずれも、真・善・美三位一体の境における美の様相、といってもよい。

 利休の茶禅一味の茶の湯の茶事は、数寄屋仕立ての茶室において営まれる。茶室、すなわち侘び数寄の内的間は、茶事を可能にし、保護する拠り所、それなしでは事が成立しない拠所、ともいえる。侘び数寄の数寄は好きの当て字、という。然らば、数寄は、隙、或は、透きの当て字とすれば、如何なる意味合いが考えられるのか。隙・透きは、物と物との空いている、或は開いている部分、隙間、すなわち間(あわい)をいう。さすれば、侘び数寄は、侘びの間の意、となろう。侘びは空間性の美的様相であるということからすれば、侘び数寄の間は、侘びの空間からなる家屋、と見ることもできる。然して、利休の茶の湯は、侘びの透き間において一期一会の茶事が取り行われる芸事、といってもよい。茶室は茶事の根拠、といってもよい。侘びの透き間は、茶室が包摂する、真・善・美三位一体の境における有相の美の空間、といってもよい。それとともに、侘びの透き間は、一期一会の邂逅における命の交感の営みに顕れる知・意・情三位一体の無相の美、すなわち時間性の美である寂びが融通相即する時空一如の間、といってもよい。

 一方、茶室の外的間は、諸々の事物が出会い交感する事事無碍の間、諸々の事物の佇まいが織りなす時空間、すなわち風景の間、といえる。先に見たごとく、風景の間は、侘びの佇まいの回りに醸し出される余情の美、すなわち寂びが包囲する透き間、といえる。寂びの透き間は侘びの根拠、といってもよい。更に、この風景の透き間は、それを包摂する無量の時的透き間、理事無碍の間、すなわち背景の間を根拠として成立している。法身の範疇でいうならば、諸々の物事を内包する風景の間を方便の間とすれば、風景の間を内包する間は法性の間、ともいえる。言い直せば、有相の方便の間は、三位一体の真・善・美からなる身性の間とすれば、無相の法身の間は、三位一体の知・情・意からなる心性の間、といえる。美的価値からみれば、侘びとは、法性の間に相即する方便の間における佇まいの美のこと、といってもよい。そして、風景の間すなわち方便の間は、侘びの佇まいの回りに醸し出される余情の美、すなわち寂びが包囲する透き間、ともいえよう。方便の間における寂びは、物事の総和が醸し出す心情の顕れであり、いうなれば、余白における幽玄、ともいえる。一方、背景の間、すなわち法性の間は、方便の間を包摂する無量の時的透き間、理事無碍の間、そこに醸し出される気配すなわち寂びは、方便の間の醸し出す寂びの気配(寂寥)を更に包摂する超越的雰囲気(寂寞)ともいえる法性の間の醸し出す心情であり、いうなれば、余韻(沈黙)における幽玄、ともいえる。

 詮ずる所、二様の幽玄、すなわち事事無碍の間における寂びと、理事無碍の間における寂びの差異は何処にあるのか。それは、孤独な命の差違にあると見なければならない。すなわち、限りのある命や限りのない命の孤独性に光を当てるとき、初めて見えてくる事柄、といえる。事事無碍の間における寂びは、有限者、すなわち限りのある命、或いは命の一つの集まりが醸し出す寂寥に漂泊する寂しさ、と見ることができる。一方、理事無碍の間における寂びは、無限者、すなわち限りのない命、或いは一つの命の絶対的孤独が醸し出す静寂に安らう寂しさ、と聞くことができる。


前のページ << 自覚者達の芸道 07

次のページ >> 自覚者達の芸道 09