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主宰・石 寒太

寒太独語

「炎環」主宰・石 寒太による俳句の箴言を毎月ご紹介します。

2018年9月

本の虫たちと連れだって
阿佐谷ナイト句会神田神保町吟行

俳句表現の妙味は、
描いて、
しかも空白の存するにあり。
俳句だけではない。
絵画に於いて、
写真に於いて、
音楽に於いて、
まして、茶、能すべて。

俳句に於いて……。
空白の美、
空白の意味、それが俳句の味なり。

2018年8月

信州蕎麦の美味さにしばし無言
洋洋句会蓼科吟行でのひとこま

生き方を示すのではない。
作品の中に生き方があらわれるのだ。
俳句実作においては、作者はいつも、
自分の生き方に対峙している。

だから、とりたてて示さなくても、
その自然さが滲み出る。

態度そのものが、作者を決定し、
それが、俳句としてあらわれるのである。

2018年7月

あじさいのよく似合うひとと
環の会鍛練句会前の吟行にて

俳句は、前書き不用の詩型。
よりて世界最短詩とはなれり。
但し、
前書きがありてこれ、
その句に光添ふる時は、
肝にして要あり。
照応の芸術なり。
記録として残さるる刻は、
前書きにて縷々述べる堅し。

さやうに
心すべし。

2018年6月

石に刻まれたいにしえの言葉
多胡碑覆堂にて高崎句会吟行

物はことばを待っている。
作者は自分を離れ、果てしなき時空をさまよい、
ひとつの物と出会う。

物とことばはひとつとなり、
永遠の俳句となって結実する。
作者は、永遠のことばで、
つなぎ留めるのである。

この遊心が俳句となる。
それが、心語一如

2018年5月

GWの夜も俳句に更けて
阿佐谷ナイト句会

十七文字で切らずに述べれば、説明文になる。
十七音を二つの部分に分け、それをぶつけ合わせると、
中間にクレパス(空間)が出来る。
そこに読者が入り込む。

そして、ひろがる。

底しれぬクレパスを覗けば、
ひとつの詩(ポエジー)が見え、世界ができる。

俳句の深さとリズムが成立する。

2018年4月

落花のなかの飛鳥山お花見吟行会

ひとりひとり顏がちがう。
ひとりひとりの句のつくり方も、当然ちがっていい。
下手もその人の個性のひとつ。
そのうちに、必ずその人の俳句になる。

みんなちがってみんないい。
自信をもって、自分の句をつくろう。

自分の句が、その人の顔になる。

2018年3月

創立三十周年記念大会主宰挨拶
また、次の目標に向かって

句会に初参加した人に、「投句してください」というと、
「初心者だから」とか、「下手だから」といい、
なかなか投句までいかない。
でも、「初心者」で「下手だから」学ぶのだ。

俳句に志したら、ともかく皆の中へ入ってみる。
そして、いろいろな意見を聞く、
そこから、はじめての俳句がはじまるのだ。

2017年12月

去来祭の落柿舎へ

「もの」により、
「こと」に託し、
自分を発見し、覚醒し、
詩にすることが俳句。

目の前に、流動してやまない、
ことばを、自分で捉え、詩に成す

それが、自分の一句として、
結実する。

2017年11月

主宰の必需品
辞典の角はうさぎに齧られたそう

俳句の必需品、
①歳時記
②俳句手帖(句帖)
③国語辞典
この三点は、いつも机の上に置くか、携行するようにしよう。
これは自分のもの。
他人のものを借りているうちは、
自分の句にならない。
それが、俳人の基本。

2017年6月

炎環笹塚句会
楽しさと緊張感が句会の醍醐味

なぜ俳句か?

はじめから自分の意志で 俳句を選んだ人は少ない。
が、俳句を選んだからには、俳句で表現する。

その特長を把握すること。
俳句は散文ではない。韻文である。
そのことにまず目覚めること。それが俳句表現の出発となる。

2017年5月

炎環編集会議 編集長と談笑中

物語が構築される過程には、虚がよく組み入れられる。
見えない魔性に暗示を託す。

俳句でもしかり。俳句の読み手に委ねられる虚。
それも俳句の質のひとつ。

虚と実のあわいが俳句。
その割合は人によって異なるが、それが隠し味になる。

そのあたりを学んで欲しい。

2017年4月

洋洋句会 甲斐吟行での一枚

俳句は短い。

世界最短の、定型の詩。

型があって詩のない俳句。それは抜け殻の十七音。

不用のことばを捨て、核のみ残す。そして詩を入魂
リズムを整え、詩が成る。

それが俳句。俳句は短い。

2017年3月

石 寒太主宰 炎環本部句会にて

芭蕉は「俳諧は夏炉冬扇」といっている。
文字通り、夏の炉や冬の扇、この世には何の役にも立たない。
つまり、無用の用である。

俳句でトクをするわけがない。だから、熱中するのである。

俳句でトクをしたり、もうけを求めるなら、もっと他のことをしたらいい。

しかし、自分には、必ず返ってくる。

2017年2月

奄美大島吟行

俳句は短い。なぜ短いのか。

ひとりですべていいつくすのではなく、作者と読者がともに分かり合う。その部分を空白で示す。

書かれていないところに、想像がひろがり、真実がある。

あらわれていないことが、いちばんいいたいところ。

2017年1月

主宰・石 寒太を囲んで
平成二十九年度 炎環新年会 懇親会

俳句は、その刻々のたましいのつぶやき。

新鮮なるつぶやきが、後の世にも輝きを喪う事なく、
人に感動を与える。

そういうことに、終始して、俳句をつくること。

そういう俳句人生を送りたいと思う。

2016年12月

Sara句会 20句作品合評会にて

季節のことばをじっとみつめてみる。
一年中あっても、「トマト」は夏。「朝顔」は秋。

いま、地球の温暖化が叫ばれ、季節のズレが問題の焦点になっている。でも、それは、ことばである以上の、不易流行によって、日本の祖先たちが見極めて定めたもの。美しい造形である。

季節感はうすれても、季節の戸籍として定められたことば。
ひとつひとつを噛みしめてみよう。

2016年11月

鬼石の冬桜・紅葉吟行
参加者とそのお子さんと一緒に

俳句はもともと俳諧から出発。人や風土への挨拶が大切。

挨拶とは、おもいやりのこころ。ダイアローグの精神で句をつくる、やさしいことばで思いは深く。
かたちは代わっても、こころは変わらない。

俳句のこころは、人それぞれの中に、生きてことばに生まれ変わる。それが、いまの俳句。

2016年10月

新潟・山古志村吟行
晩秋の杜々の森

俳句は魅力があり、面白く、飽くことがない。

でも、もっとすごいのは、俳句をめぐる人の環である。
怖ろしい人がいる、素晴らしい者がいる。

その者たちと出会うことが、実は、
俳句の宝であり、そのものである。
自分のひろがりに絡がる。

2016年9月

炎環「環の会」総会

俳句は、私を記録する短詩である。
でも、表現上では私をおもてに出さない。

私を詠むということは、私の独自の視点から捉えること。
私の目から見た、私の目を通し、私が判断し、私の表現になること。

一般の人の視覚ではなく、私を通した表現にする。
それが俳句である。

2016年8月

おくのほそ道吟行
最上川舟下り 直前の談笑

俳句は、作るという。書く、という人もいる。また、捻るとも、詠むとも。
あなたはなに派?
が、まれに賜ることもある。

何も考えずに、ことばが天から降ってきて、それがそのまま繋がって、一句に完結。

めったにないが、これが理想かも。こんなときを待って、日々努力を重ねる。

2016年7月

隠岐吟行
石 寒太の師、加藤楸邨の句碑の前で

俳句をはじめたら、必ず、句会に出ること。
それが上達の秘訣。

ひとりで作っているうちは、まだまだ時間のムダ。
投句をし、選を受けて、自分の欠点を知ること。

俳句は“座”の文学。
ともに学び、いっしょに伸びてひろがってゆく。

俳句とは、そういう特殊な文芸。
句会に参加したら、つづけ、怠らないこと。

2016年6月

炎環 松山俳句大会
子規堂の旅立ちの像

自然は、見えているようで、なかなか見えない。
我を凝らさないと、見えてこない

俳句は季の中にいて、気を乗せつくる。

一季に集中して、一気につくる。

そのとき、季節の自然が、本当に見えてくる。

2016年5月

群馬・ももちどり句会
吟行後の歓談を楽しむ主宰

その人の俳句がいいか悪いか。本当のところは、よく分からないもの。でも、分かるのは、その人にとって、俳句が生きて動いているかどうか――。

他人の俳句と同じものは、はじめから死んでいる。あくまでも、作者の感動となって、自分の十七音に切り結ばれているかどうかにほかならない。感動が、自分のものとなって、表現されているからこそ、その人の個性。

自分の感動が全きものになって、はじめてその人の句となる。

2016年4月

新宿御苑お花見吟行にて

いちにち いちにち、一瞬(とき)は過ぎ去っていく。

自分の句づくりも、いちにち、いちにち、終わっていく。

だから、昨日のわれではなく、今日の自分を求めて
一瞬を心に刻み 今を俳句にしよう。

2016年3月

新宿若葉句会
お気に入りの帽子姿で

俳句づくりの楽しみは、自分にどんな句が出来るか、自分でも、分からないところにある。

そこで感じた一瞬、その場、そのとき、われの感動。
そのひらめきが、即、一句になる。

それは、自分の思いの外にある。
俳句が、天から降りてくる、その一瞬。

2016年2月

横浜句会
参加者のお子さんとくつろぐ主宰

俳句の旅は、ふりむかない旅。
詩を求めてのこころの遍歴。

われという存在を探し、ものに触れて、われとものをひとつに。
旅と俳句がひとつにする、根気と覚悟。

「いま」の一瞬をつかむために、俳句は、詩に生むために、時間(一瞬)を切断する、旅だ。

2016年1月

主宰・石 寒太
平成二十八年度 炎環新年会にて

いまを生きる充実感。
季節の移ろいを楽しむ満足。
人と会うことの喜び。

俳句は、その時の、その人の生きている実感。
その出会いを信じて、いつも新しさを求めて、新は真なり。

芭蕉はいった「きのふの我に飽く」と。
俳句の風雅とはそういうもの。