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しらべの不思議 Ⅷ

永田 吉文

  • 九 道心のおこりは花のつぼむ時 来

「花」の句で季節は春。「花」具体的に桜のことだが、美しい花々の象徴でもある。「道心(どうしん)」は仏道に帰依する心。出家遁世を思い立ったのは、桜も蕾の頃、 同時にそのように若い年頃だったの意。「花」の常座(じょうざ)(花の句を出すように定められた場所)は、初折の裏の十一句目だが、先の六と七の句に春季の句が二句出たので「花」の句を出した。人間の寿命を行灯の灯から連想し、それが消えることから無常を感じ、釈教(しゃっきょう)の句を付けたもの。歌仙一巻には森羅万象を詠み込むものとされ、神祇や釈教の句も詠むものとされる。ここは花の散る時ではなく、花の蕾の時としたところに工夫がある

発句は一巻において最も尊ばれるが、それにつづいて「花」と「月」の句が尊ばれる。それ故、「月花一句(つきはないっく)」と言われ、連衆全員で一句一句分け合うものとされる。この一巻では、発句での夏の月と名残の表の七句目の秋の月を凡兆が付け、初折の裏の三句目の「枝折(しお)りの花」を去来が付け、初折の裏の十一句目の秋の月と名残の裏の「匂ひの花」を芭蕉が付けている。「匂ひの花」は、今日においても捌き手(宗匠)が付けることが多い。古くからの伝統が現代でも生きている。

私の所属する連句会は蕉門の伊勢流にあたる。その祖は、蕉門十哲の一人の立花北枝(たちばなほくし)(生年不明~享保三年[一七一八]没)である。北枝は加賀国小松に生まれ、のちに金沢に住んだ。元禄二年(一六八九)七月二十七日から八月四日まで芭蕉は加賀の山中温泉に滞在し、この時北枝は芭蕉に入門した。この間に芭蕉から聞いた俳話を書きとめたものを、後に『山中問答』として出版した。その付録としてあったもに「附方自他伝(つけかたじたでん)」なるものがある。北枝が三年間工夫して発明し、芭蕉の披見を経たものとされる付方の方法論である。それを今日我々は「自他場(じたば)」と言っている。「じたばたする」の語源にもなったもので。文字通り連句をしながら我々は「じたばた」言いながら連句をやっている。全ての句を「自の句」、「他の句」、「自他半(じたはん)の句」、「場の句」の四種類に分類し、打越を避ける工夫をするものである。

  • 自の句は、自分が何かをする句。
  • 他の句は、他人が何かをする句。
  • 自他半の句は、自分も他人も一緒になって何かをする句。
  • 場の句は、只の景色の句。風景の句。時事などの概念の句。

これらを使って一句一句を分類し、打越が同じにならないようにするだけで、大体転じる句を付けることが可能となるのである。この「市中は」の巻きで具体的に示すと…。

発句 = 場ナオ 十九  = 場
脇  = 他二十  = 場
第三 = 他二十一 = 他
四  = 自二十二 = 他
五  = 自他半 二十三 = 場
六  = 場二十四 = 場
ウ 七  = 自二十五 = 自
八  = 自二十六 = 自
九  = 場二十七 = 場
十  = 場二十八 = 場
十一 = 自他半 二十九 = 自
十二 = 自他半 ナウ 三十  = 自
十三 = 他三十一 = 自他半
十四 = 場三十二 = 他
十五 = 場三十三 = 他
十六 = 他三十四 = 場
十七 = 自三十五 = 自
十八 = 自挙句  = 自

大雑把に分類したが、ほぼ自他場の方法論に合っている。芭蕉自身が何処まで意識していたか知れないが、北枝が分析した通り、芭蕉はそれを結果的に実践出来ていた。もっとも今日では、場場自自場場のように、場の句二句で人情句二句を挟むことを「縞になる」といい、作品の力がなくなり面白味がなくなる」として避けている。場の句と人情句が逆になっても同じである。変化を重視した考え方と言えよう。「市中は」の巻に戻る。

  • 十 能登の七尾の冬は住みうき 兆

季節は冬。前句の春から、この句の冬への「季移り」。能登の七尾は、石川県の能登半島の北岸の漁師街の地名。一巻に地名や人名を出すのも一興とされ、今でも行われている。

能登の七尾は冬が厳しく、住み辛い所であるという。前句を僧と見て、その述懐とした付句。古くから『撰集抄』(説話集)の見仏上人の俤とされる。撰集抄は西行仮託のもので、江戸時代の俳諧師たちによく読まれていたという。「住みうき」という表現が、しみじみとしていて和歌的もあり、いかにも老僧の回想の体で上手い。前句は「花」で春であるが、実際は蕾ではなく、若さの象徴と見て、しかもこの句が回想の形をとった冬でもあり、想像の中(概念上)での季移り故に、無理のない付句と思われている。一季の中での季戻りは禁じられているし、無理な季移りは嫌われる。ここも打越のこころもとない春のシーンから、冬の具体的な厳しい実感へと大きく転じている。