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見るということ

田島 健一

俳句は「写生」で、「写生」とはものを見ることだという。

ここでいう「見ること」というのは、なかなかに複雑な様相をもっていて、それは決して十全なものではない。同じものを見ているようでいながら、それが同じものであることは保障されていない。ある思想的な枠組みが崩れると、目の前の対象の、「それ」が「それ」であることは揺らぎ始める。言い換えれば、私たちがものを見るとき、私たちの認識はある種の思想的な何かに支えられている。

そんなことを考えていたら、先日、ある深夜番組で興味深い番組をみた。

それは、キスマイ(注1)の番組で、「芸能人の兄弟のフェイクを見破れ」というもの。ステージに登場した芸能人の兄弟を名乗る人物が、本物であるかどうかを、キスマイやフットボールアワー(注2)らのタレントたちが当てるというクイズ形式のコーナーだった。

登場したのはお笑い芸人・ザブングルの松尾(注3)の双子の弟、という人物。そこにはザブングル松尾にそっくりな人物が立っている。あまりにもザブングル松尾に似ているので、解答者のタレントたちは、「本人なんじゃないか?」と疑うわけだが、このとき考えられる選択肢は3つある。「ザブングル松尾の本物の双子の弟」、「フェイク(偽者)で全くの別人」、「ザブングル松尾、本人」。

この番組の面白さのポイントは、この3つ目の選択肢が現れることなのだが(で、実際にこの「双子弟」は、ザブングル松尾本人だったのだ!)、一方で興味深いことは、そこにいる人物がどこから見てもザブングル松尾本人であるにもかかわらず、「双子の弟かもしれない」というその一点において、解答者たちは「彼」が「彼」であることに確信が持てない、ということだ。

解答者たちは、目の前のザブングル松尾を過不足なく見ているにもかかわらず、そこにザブングル松尾以上のものを見てしまい、迷うのである。

これは私たちが見ているものが十全なものではない、だけでなく、それによって私たちはその見ている対象の中に、その対象以上の「何か」を見ているのである。つまり、言うなれば「双子の弟」という凝った条件は必要ないのだ。もっとシンプルに、目の前にザブングル松尾がいるところで、「この人物はザブングル松尾である。本当か、嘘か」と問えば、そこには、やはり「対象以上のもの」が現れるのである。

例えば私たちは、日常会話の中で「田中って、ホント、田中だよねぇ」というような言い方をすることがあるだろう。これは、「田中は田中である。(田中=田中)」ということだけではなく、「田中は田中以上に田中らしさを持っているよねぇ」と、「田中=田中+α」であることを言っているのであり、さらにはこの「+α」こそが、田中を田中たらしめていることを暗に述べているのである。

こうして私たちは、常に対象のなかに対象以上のものを見ている。そして、その対象以上のものが遡及的に対象そのものを対象たらしめている。

俳句で「ものを見る」というとき、私たちはその「対象以上」のものを見るのだ。そして俳句形式はその五七五という短さの中で「それは、それである。本当か、嘘か」という名指しと問いかけを同時行うのだ。そうして名指されたものが、それ以上のものとしてそこに現れるのである。

「ものを見る」とは、そういうことなのだ。

 

※タレントの名前に疎い方のための注釈
(注1)キスマイ・・・正式名称は「Kis-My-Ft2」。ジャニーズ事務所所属の男性アイドルグループ。
(注2)フットボールアワー・・・吉本興業所属のお笑いコンビ。ブサイクな岩尾とツッコミの後藤の二人。
(注3)ザブングル松尾・・・ワタナベエンターテイメント所属のお笑いコンビ、ザブングルのツッコミ担当。ちなみにザブングルのボケ担当はブサイクキャラの相方・加藤。