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理論としての俳句

田島 健一

理屈っぽい俳句は面白くない、とよく言われる。

確かにそのとおりだ。

俳句はどこかで理屈では説明できない飛躍がなければ面白くない。

とは言え、その返す刀で「俳句に理論は必要ない」とまで考えている人たちがいるのだが、それはいかがなものだろうかと思う。

そのように考える人たちの多くは、そのような「理論」に対抗する純粋無垢な「感覚」というものが人間に備わっていて、俳句はその「感覚」に訴えるものなのだ、と言う。

けれども、基本的に俳句は「言葉」でつくられ、それゆえにどこまでも構造的で、理論的だ。

俳句から「理論」を消してしまうと、俳句の「読み」そのものが消えてしまう。

そんなことを考えているとき、ふと金子兜太の処女句集「少年」のあとがきに次のような一文を見つけた。

例えば僕は論理を嫌つた。論理を構成するとき、既に本質は逃げていると感じた。心情だけが本物であつて、意志とか意欲とかいうものはまやかしだと感じた。これらの底には、当時の空虚で観念的な国家論や道徳論に対する心理的反撥も手伝つていたとは思うが、そうだとは言い切れぬ程、すべては感じの域を出ないものであつた。然し、こうした体質的な状態は「結婚前夜」の頃を境として、徐々に変つていつた。正確には変らざるを得なかつたと言うべきであろう。(中略)それは、今まで純粋といゝ、誠実といゝ、本物という場合、それを暗黙のうちに対決させていた不純であり不実であり偽者である反対物についてはこれを当然の前提とし、従つて誠実等を可能にする環境条件を考慮していなかつたということであつた。

このような変化について述べたあと、兜太は次のように書いている。

善良というものは本来的な性質であつて、こゝから善意とでも言うべき社会的な性格に展開しない限り、それを支え切ることは出来ない。また、そうした社会的な性格に到るためには、自分の抒情的体質や封建的意識と裏はらの感情の古さを、論理的に克服する必要がある。

論理が必要となるのは、この「自分の抒情的体質や封建的意識と裏はらの感情の古さ」の自覚があってこそで、それを論理的に克服する、ということは、つまりは自身の無意識の領域を覗き込むことなのではないか。

フランスの精神分析家、ジャック・ラカンの有名な公式「無意識は言語として構造化されている」とは、俳句に置き換えれば「論理的な読み」の向こう側に、作者が「書いてしまったもの」を読み出だすことであり、それは「理論」そのものといえる。

もう少し正確に言えば、私たちの「感覚」は、象徴化された日常生活においては言語で鎧われていて、それを乗り越えて「感覚」そのものに到るには、言語を排除する理論が「言語的」に必要となるのだ。

だから、俳句はある意味で実に「理論的」な文芸だといえる。

それは、五七五という最短詩形としての俳句の持っている特性の一つと言うことができるのではないか。