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炎環の俳句

2017年度 炎環四賞

第二十一回「炎環エッセイ賞」受賞作(テーマ「本」)

深夜の朗読者

竹内 洋平

三十年以上前のことだが、地元の図書館から依頼されて五年間ほど朗読のボランティア活動をしたことがある。視覚障害者の希望する本を読むのだが私が引き受けたのは対面朗読ではなく、マイクに向かって読んだものをテープに収めて提供することである。

テープ録音には対面で読む緊張感とは別の苦労がある。テープは末永く保存され不特定の利用者に聴かれることになる。そのため提出後に厳密な校正を受ける。当然自分でも何度か聴き直して、これでよしというところで渡すのだが、初めの頃は単行本一冊につき五十枚以上の付箋が貼られて戻されて来た記憶がある。読み違えは当然だが、厄介なのは微妙なアクセントの違いについての直しである。

私は地方出身ではあるが、標準語の話し手として自信を持っていたので、これには頭を抱えてしまった。アクセントと言っても、関西弁のような明らかな違いではないが指摘され口に出して比較してみると、その微妙な違いを認めざるを得ないのである。

図書館側の立場はよくわかる。著名な作家が文字にして残したものを音声に置き換えた途端、まったく違う意味に解釈されては作品自体を損ないかねない。慎重を期すのは当然と言える。日本語の発音アクセント辞典なるものがあることをその時初めて知った。

朗読は物音が途絶えた真夜中に始める。まず身動きの際の衣服の音などを拾わないために天井からタコ糸を使ってマイクを吊るす。ちなみに屋根を打つ雨音や近所の犬の遠吠えもご法度である。雨の夜は諦めるしかないし、犬が鳴いたらテープを巻き戻すことになる。救急車や消防車のサイレンなどが聞こえてくると思わず舌打ちしたくなる。

一冊を読み上げ、校正を繰り返した末に納入するまでにはおおよそ半年を要したので五年間で十作品に届いたかどうか。図書館側は読みたいという需要があって朗読を求めて来るのでその間、おおよそ自分の好みの本に出会うことはなかったが、そうした本の中でその後蔵書として永く手元に置くことになった一冊がある。動物行動学者コンラート・ローレンツの古典的名著『攻撃』である。

すべての同一種族間の攻撃行動は、種を維持するための本能に由来するものであるとか、攻撃が儀式化されて無害なものになり、やがてそのことが人間の攻撃行動へと理論づけられていく過程などが実に興味深く語られる。今でも小さな水槽の四隅にも魚たちのテリトリーが生まれるという一節を思い出し、つい熱帯魚槽などを覗き込んでしまうことがある。


この稿を書くにあたって、ネットで市立図書館の「視聴覚資料」を検索してみた。『攻撃』は九十分テープ十巻として存在していた。借用してみたかったが、それには視覚障害者として登録が必要とのことで叶わなかった。

三十年前の自分の声が更に遠のいてしまったように思った。